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Dailog - ダイログ -

ろうあ者や手話通訳、時には時事ネタも突っ込む20代の次世代手話通訳者×全コーダが書くブログ。基本週一更新予定。

Uncomfortable World

気が付けば3ヶ月過ぎていました。どうもありがとうございました。

 

ブログって気負って書くもんじゃないと思うんですけど、まあ三日坊主の集合体になりつつありますね。

 

今日は私が置かれている話をしようと思います。

 

私の父親福島県福島市出身、母親はいわき市出身です。

父親のお兄さん(おじ)は長らくどっかの団体の事務局長やってたり、で父親とおじの兄弟関係は福島県内では知らない人を探すのが苦労するレベルだったりするような関係で私は育ちました。

父方の実家帰ってもおじと話すときは手話を使いますし、おじの奥さん(おば)も手話通訳者であり手話通訳士ですから当然のことながら家庭内では手話が溢れている環境で育ち、必然的に手話を覚えていきました。

 

父親は毎週のように聴覚障害者会関係の役員会や手話指導で出かけ、母親も女性部の活躍等々で夜にひとり家に置いていかれるような生活もあったり、母方の実家が近隣ですからそこで夜帰ってくるまで待っていることもあり、そういう生活故に寂しがり屋に育ってしまった性格もあるようで。

ただ、ときたま連れて行かれることもあり、平気で地元での行事にも連れて行かれたりしました。まだ今のように政見放送に手話通訳が導入されていなかった頃、ビデオ学習会に連れて行かれたりされたのもいい思い出です。

 

しかしながら、手話の世界に連れて行ってくれた父親や母親の甲斐虚しく、私はどんどん地元(市レベルで)から嫌われていくようになっていきました。

「生意気」だと言われたり、「調子こいてる」と言われることは普通にザラにある中で生きてきました。

そういう中である程度物心ついてきた中学生のころ、私はついに地元の行事には出かけなくなりました。居心地が悪いと思ったんでしょう。居心地が悪いっていうことがどういうことなのか、言葉では理解できなくても。

 

それでこそ、最近になってちょくちょくイベントに顔を出すようになりましたが、市レベルの行事には正直あんまり出る幕がありません。

自分でいうのもおかしな話ですが、この世界に再突入したのは、2014年に福島県郡山市で開催された「第47回全国手話通訳問題研究集会」で、本当に久しぶりに飛び込んだ気がしました。あれから3ヶ月後、父親との会話で・・・
父親「板橋さんって知ってるか?」
わたし「うん」
父親「亡くなったぞ」
わたし「えっ?」
という会話があったように、板橋さんが急逝されたのも記憶に新しいことです。今では板橋さんを知らない手話通訳者も増えてきました。

東日本大震災前、いわきでやっていたろう野球チームへ練習に参加して、当時かわいがってくれたろうの大先輩も帰らぬ人になったり、ここ数年慌ただしく、恩返しをすべき人に恩返しができないまま先越されることも一つ、二つの話ではなくなってきました。とても残念に思い、今思うと惜しいことをした、と改めて感じます。

 

2009年6月、茨城県つくば市で私は初めて全国ろうあ者大会に参加しました。私の両親は富山で開催された全国ろうあ者大会で知り合って落ち合ったそうなのですが、全国ろうあ者大会に家族三人で手をつなぎ合ってあの並木道を歩きながら、「ゆずり葉」の映画を見たことを久しぶりに思い出しました。あの頃はろうあ者に対する対応の仕方がよくわからないと思っていた矢先だったんだろうと思います。

 

私はどれだけ手話の世界から逃げ出したいと思ったことかわかりません。正直言えば、「僕は絶対将来手話通訳者にはならないぞ!」と思っていたほどですから、それだけいやな思い出も山積していたことでしょう。

 

話は一気に昨年に戻りますが、同じ福島県下でも1ヶ月以上に渡ってチラシや告知等の配布にディレイ(遅延)が起きていることにすごく嫌気をさしていました。私が参加をしていたいと思っていた行事も当然のことながらディレイが起きており、予め市レベルで「チラシが回ってきたら連絡をしてほしい」と言っておりました。

なかなかこないことに対して、同じ福島県下では会員に回っていくチラシ。そして、ついにしびれを切らしたころ、やっと回ってきたのです。それは大会参加締切の1週間半前の話だったのです。他の地域ではもう1ヶ月も早く配布されていたものが、たったの1週間半しかないもの。理由を聞いても、納得しない答えばかり。私が嫌われてるのかなんなのか、よくわからず終い。ついには一緒にいた父親も切れだす格好で、もう耐え難い状況が続きました。

 

この瞬間、「あ、もう無理だ。」と思ってしまい、結果そのマインドが今にも続きます。

 

もったいぶるのも仕方ないので、言わせていただきます。

私は、来年度より地元、いわき市を離れて生活をすることを現在検討しています。どうもここじゃ、手話通訳者として活動できない。そう思って判断した次第です。

ただ、福島県下では、福島県で活動してほしいと望む声も聞かれており、その声を犠牲にしてまで行くところはありません。まだ器も据わってないような未熟な私に、なにからなにまで一つひとつ丁寧にしてくれている先輩も当然のことながらいます。2015年8月、灼熱のように燃える暑さの中、日比谷公園から国会議事堂まで歩いたとき、あのとき福島からの派遣団を東京駅で見送るとき、「将来は手話通訳者として活動だね」と言われた県ろう協のお偉いさんからの言葉は今の糧にもなっています。その期待を裏切るわけにはいきません。

 

6月25日、手話言語条例制定市で、未来へのコマを進める。私はそう決めました。

だから、福岡には行きません。昨年よりも、つくば大会よりも行きたかったけど、犠牲にしてでも守るべきものがある。千年後なにも残らないけど、それでも今やるべきことがある。夢を叶えても、やるべきことはまだまだたくさんあるから。