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ろうあ者や手話通訳、時には時事ネタも突っ込む20代の次世代手話通訳者×全コーダが書くブログ。基本週一更新予定。

【行事参加レポートVol.5-2】第43回東北ろうあ青年研究討論会<2日目>

2日目です。

 

午前7時すぎに起床、みんなは一足先に食べてきた人もいれば、これからいく、という人もいる中で、どさくさに紛れて急いで朝食会場へ。

昨年は朝食会場も貸切でしたが、今回は交流会会場がそのままその宿の宿泊者の朝食会場となっていましたが、東北青研参加者は必然とひとかたまりになって、朝ごはんを食べていました。

 

7時50分ごろにご飯を食べて、急いで部屋に戻り、もう一回お風呂に入ることに。

同じ部屋の参加者から「え、また!?」と言われましたが、ひるむことなく3回目のお風呂に(笑)。

ちょうど貸切で誰もいませんでした。

 

部屋を出る準備をして、討論会会場へ向かいます。

 

9時、討論会2日目の日程が始まりました。

2日目も記念講演で、テーマは「専従職員としての30年間〜そして青年部に伝えたいこと〜」、講師は一般社団法人秋田県聴力障害者協会事務局長の加藤 薫 氏です。

初日の記念講演は、「情報提供施設」がテーマでしたが、秋田県の情報提供施設の開設はいつでしょうか?

 

わかる人は勘付いてますね。昨年の秋です。やっとこれで東北6県の情報提供施設は県レベルでの設置が完了したのです。そんな秋田の情報提供施設ですが、センター長も務めていることもあり、また前々からこの加藤講師の話はとてもいい、と聞かされていたので、とても楽しみにしていました。

 

まず、講師の生い立ちから話が始まりました。昭和40年、講師が小学6年のときに失聴してから、ろうあ運動の世界に入ったということでした。

東北のろうあ運動の先駆者といえば、今はなき板橋さん、先日の第50回全青研で特別企画に出演した青森の山内さん。そして、3人目は講師であると私は感じていますが、講師もかつてはろうあ運動に抵抗、というよりも違和感?を感じていたようです。

というのも、講師は小学6年生に失聴したわけですから、事実上は中途失聴者であるわけです(生まれつきやストレプトマイシンの副作用などといった言語獲得前に聞こえなくなることに比べると)。そういう中で、ろうあ運動に対してあまり本腰が入らなかった時期もあったそうですが、その時に板橋さんや山内さんと出会って変わった、と話していました。

とくに「結婚した人は離婚できるが、結婚しない人は離婚できない。これと同じで、ろうあ運動しない人は運動をやめる資格はない」と叱られて、やっと本腰が入ったとか。

 

この言葉はとくに福島の人が語るイメージがありますが、「板橋さんが叱る理由は、あなたを憎んでいるからではない。頑張れる力があるから、頑張れと叱っているんだ」という言葉、講師にも投げかけられたようです。福島の人はみんな口を揃えて「叱ってくれる人は未来がある」ということとほぼ同じようなことに思えるのですが、やはり叱られたことがある人、叱られたことない人と二分しているあたり、板橋さんにはなにか見えていたんでしょうか。

そんな言葉を山内さんから投げかけられ、ろうあ運動の道を貫くことにしたそうです。

 

さて、舞台は一旦東北に移ります。東北ブロックの幹部研修会、参加したことありませんが私は覚えています。1月のとても寒い時期に行われるんですよね。今は1泊2日のほうが多くなりましたが、昔は2泊3日だったそうです。ペーパーテストが設けられて、そのために前日は徹夜・一夜漬けで覚えていったそうです。講師がいうには、「いつも福島はすごい、いつも1位をとっていた」と話していましたが、たしかに東北ブロックの中では福島が圧倒的に協会の勢いはあるかもしれません(東北ブロックの各県からはさん団体の連携の良さを評価されることもあるのでそれかもしれませんが)。そのペーパーテストに対策するため勉強していきますが、その過程こそが大事と実感したそうで、正しい知識を得ることはろうあ運動をしていくためにはとても必要だ、とはっきりおっしゃっていました。

 

そんなとても寒い中で行われるブロック幹部研修会ですが、講師が若いときに先輩から「酒を買ってこい!」と頼まれたそうです。でも一つ条件があって、「手ぶらで帰ってくるな」とだけ言われて買いにいかされたそうで、猛吹雪で店も空いていなく・・・居酒屋の戸を叩いてそこのおかみさんに交渉してお酒を分けてもらったとか。ろうあ運動は常識破り(いい意味で)な展開をしてやっと動くものなのかな、と思っている自分にはすごく説得力を持たせてくれたような話でした。

 

それから、東北ブロックは絆が強い、と言われることがありますが(これは東日本大震災の前から?)、その中には昭和60年、当時全国大会の開催地が岐阜の時、日本聴力障害新聞(日聴紙)の拡大運動が活発だったそうですが、史上初めて東北ブロックが優良ブロックとして表彰されたのです。

組織力が大きい東京や大阪など大都市圏がクリアしやすいと一見思えるこの運動は、山あり・川あり・雪ありの厳しい条件で鍛えられた成果がでたのではないか、という話も合わせてありました。

 

それだけではありません。講師は30年間専従職員として活動していらっしゃいますが、その中で初めのころ、まだいい環境もなく、一人で仕事をこなしていた頃、あまりの多忙ぶりに講師は入院してしまいます。秋田の理事では当時「仕事を休めば減給」という考えが強く、一人で仕事をこなして薄給の中ではいい形で仕事をこなせることは不可能です。そんな中、福島や青森が率先してカンパ応援に入り、状況を察してくれて動いてくれたことに東北の絆を感じるとともに、講師は感激したそうです。

 

さて、そんな中を生き抜いて率先して活動してきた講師ですが、青年部に伝えたいことの一つには「チャンス」がカギになると話していました。

昭和59年の第5回全国ろうあ者演劇祭典の開催、平成4年の第40回全国ろうあ者大会の開催、この二つの行事、どちらも秋田県の開催ですが、地元から猛反対された中押し切って開催したということでした。

演劇祭典は前年度開催の大阪で二桁赤字を生んだことが大きな引き金になり、秋田理事は赤字を危惧する声が多くなり猛反対。しかしこれも東北の仲間の応援によって無事成功させた。

全国大会も秋田開催を提案したら、「運動を私物化している」と批判の声。当時秋田県は東北から一歩遅れたろうあ運動をしていたということもあり、運動力を高めるためにも秋田開催を提案したそうです。結果猛反対を押し切り、協会会員も値上げして当時日本一高い会費になったものの、会費値上げの影響は予想よりも小さく、それよりも秋田大会は成功に終わったそうです。

 

最後に講師が伝えたかったこと、それは時間をもっと有効活用して、発展的な運動、そして自分自身の人生を楽しむ。この3つでした。

時間は帰ってきません。赤字をうんだ大阪の演劇祭典もタイムスリップして成功に持っていくのは無理なのです。

ろうあ者一人一人が大事にされる社会、貴重な文化である手話の言語承認、これらの実現にはもっと発展的な運動が必要ですし、その中では手話通訳制度も充実させなければいけません。

そして、なにより自分の人生を楽しむことです。聞こえないからこそ体験できるものもたくさんあります。一緒に喧嘩したり、笑い合えたりできる仲間こそ、自分の人生の糧になります。

そう、講師は告げて、この記念講演は時間を迎えました。

 

質疑応答を得て、フィナーレに入ります。

来年度2019年の討論会開催地は・・・・福島県福島市です。

福島の参加者はみんな壇上に上がり、来年の参加を呼びかけて、討論会は無事に終了。

 

そのあと角館周辺で比内地鶏の親子丼をいただき、福島からの参加者は車に二台に別れて無事福島に帰郷。秋田を午後2時ごろ出発し、福島駅についたのは午後6時半過ぎ。自宅についたのは仮眠休憩も含めて午後9時ぐらいにつきまして、無事今年の東北青研無事終了。

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来年は、第44回東北ろうあ青年研究討論会が福島県福島市での開催が決まり、現在福島県青年部より実行委員会の手伝いを頼まれてるとか頼まれてないとか。でもやらせていただけるのなら、やりたいですね。あ、それよりも第52回全国ろうあ青年研究討論会が秋田開催なので、また来年秋田にいきます。宜しくお願いします。

 

(おわり)