Dailog - ダイログ -

ろうあ者や手話通訳、時には時事ネタも突っ込む20代の次世代手話通訳者×全コーダが書くブログ。基本週一更新予定。

【行事参加レポートVol.6-1】第50回全国手話通訳問題研究集会 ~サマーフォラム in ひろしま~<イントロダクション>>

■第50回全国手話通訳問題研究集会 ~サマーフォラム in ひろしま
=主催:一般財団法人 全日本ろうあ連盟一般社団法人 全国手話通訳問題研究会
 主管:社団法人 広島県ろうあ連盟特定非営利活動法人 広島県手話通訳問題研究会=
2017年8月18日(金)~20日(日) 広島県福山市 ふくやま芸術文化ホール リーデンローズ福山市立大学

お待たせしました。第50回全通研集会のレポートです。

1968年、「第17回全国ろうあ者大会」が福島県福島市で開催され、当時は1,700人を超えるろうあ者および手話通訳関係者が福島に集いました。「第2回全国ろうあ青年研究討論集会」が福島県猪苗代町の国立磐梯青年の家で、全国大会に併催してまた「全国手話通訳者会議」が初めて開催されました。あれから50年。1975年から「全国手話通訳問題研究集会」として開催され、今年で50回目の歴史を刻むことになりました。

わたしは、2014年の福島集会、2015年の三重集会、2016年の神奈川集会と続いて4回連続の皆勤賞。

今年も期待を高くもって、参加してきました。

 

時は8月18日(金)、朝4時。
今回の開催地である広島県福山市には始発電車では間に合いません。開会式に遅れてもいいなら行けたりするのですが、まあせっかくなので開会式から見ることにするために、今回も茨城県まで自走です。
5時31分に高萩駅を出る「特急ときわ58号」にて上野駅、東京駅と乗り継ぎ、9時10分ののぞみでいざ福山へ。

今回は、ひとり旅になろうかと思っていましたが、福島の青年部の方と一緒にいくことに。東京駅で待ち合わせして、途中新幹線の中でしゅわべりながら、3時間34分(別に阪神関係ないんですよ~)の道中。

12時44分に福山に着き、ドアが開いた瞬間ものすごい熱風が。8月の前半、福島県はおろか東北地方では日照不足や連日の大雨で気温は涼しい日が続いていました。化物のように熱い風を受けて、ひとまずお昼をたべよう、ということで。前日入りして観光していた福島青年部の部長さんと合流して福山駅ビルの飲食店へ。

そんなわけでお昼を済ませ、今晩からお世話になるホテルに荷物を預け、タクシーでリーデンローズへ向かいます。時間は超ギリギリの13時50分着。どっかの行程でハプニングがあったら間に合いませんでした。

 

f:id:daichan_coda:20170825155946j:plain f:id:daichan_coda:20170825160019j:plain

▲(左から)集会開会式であいさつする地元実行委員長、集会主催者の一つである(一社)全通研・渡辺会長

開会式が始まり、厚生労働省の特別報告があり、相変わらず見にくいスクリーンで恐縮でしたが、発表が終わって、いよいよ記念講演に入っていきます。

 

ぶっちゃけたことを一ついうとですね、早起きしたこともあり、すごく眠い中で講演を受けることになりました。で、ちょっと寝てました。ちょっとどころじゃないな、結構寝てたかも。

 

記念講演は「風の歌が聴きたい」というテーマ。名前を聞いた方、ピンときた方もいるのではないでしょうか。映画「風の歌が聴きたい」の監督、大林 宣彦 さんです。

大林さんの話を聞きたくて参加した人も少なくないと思いますが、2016年8月に肺がん(ステージⅣ)が判明し、「余命3ヶ月」の宣告を受けます。しかし、抗がん剤治療が向いたこともあり、現在「余命未定」という状態であるという話も伺えました。

で、伺えたのはいいんですが、もう眠すぎて失礼ながらあくびをしながら聞いていたのですが、睡魔に勝てず・・・。なにせ、大林さんの声が子守唄のように優しい声で語ってくれるもんでして、最初の30分ほど頑張って聞いていたのですが、いつの間にか夢に入っておりました。申し訳ないです。

ただ、その中でも、大林さんが言っていたことで印象的だったことは何点かあります。一つ上げるとするなら、この映画の舞台となった高島久美子さんに監督から話を聞いたときに、「風の音が聞いてみたい」という話になったらしく、監督がこれに疑問を感じたそうです。「え、なぜ?」という話になって、その話でトライアスロンが関わって、「トライアスロンは風を感じる、けどその音は聞けない」という話になったらしく、それで監督が深い感銘を受けたとか。そんな話をきいて、ああ・・・すごいなあ、と思って聞いておりました。

昨年、戦後70年を数えて、アメリカ合衆国の大統領が被爆地を訪れて献花するという歴史的な一場面がありました。その様子は広島県はおろか、全国に生中継され、多くの話題を集めました。今回、全国手話通訳研究集会が行われるにあたり、講座の一つには原爆ドームを巡ったり、また戦争や原爆投下の歴史を語り継ぐろうあ者の講演を聞く講座もありました。

監督はこの映画の撮影を通じて、感じたものがあるそうでした。「障害があるということは個性なのだと」、決して悪いものとして捉えないということ。それから、「戦争こそ障害」なのだということも。広島県で生きてこられた監督の言葉だからこそ、その重みが改めてわかりました。

そんな中で、先ほど2016年8月にステージⅣの肺がんが判明したという話がありましたが、そのあとすぐに映画の撮影が始まるという話もあったそうです。なんとかやりきったという形で話をされていましたが、その映画の話が最後にあり、なんとスペシャルゲストで、その映画に出演する満島真之介さんが会場に。たまたま尾道など広島県に滞在していたようで、せっかくということで監督の話を聞きにきたそうです。

思ってもみないサプライズゲストの登場で、会場が沸き起こり、満島さんも舞台へ。映画「花筐」がこの冬から上演が始まるという話、また満島さん自身も沖縄県の出身でクォーターだそうですが、「戦争がなかったら沖縄にもいなかった、そしてこうしてみなさんにも会えなかった」という話をされ、満島さん自身も複雑な気持ちだそうですが、あらためて戦争はいいものではない、という話もされて、お時間になりました。

f:id:daichan_coda:20170825161641j:plain f:id:daichan_coda:20170825160518j:plain
▲(左から)記念講演での映画監督・大林宣彦さん、サプライズゲストとして登壇した俳優の満島真之介さん

で、時間になった途端、ステージ左端からスーツ姿の男性が・・・司会者壇上に上がり手話表現を始めて・・・「改めまして、第二部の司会・進行を務めさせていただきます・・・」と・・・、そう、本当ならば第二部(記念講演)の司会を務めるはずだった地元実行委員が今頃現れたのです。

というのも、記念講演の準備中、大林監督が待たせないように、と喋り始めたから、この司会者出る幕がなかったということで、記念講演が終わってからの登場。「あらためて大きな拍手をお送り下さい・・・それでは、短い時間でしたが第二部を終了させていただきます」と、なんとわずか5分の司会。これには場内が騒然としていました(笑)。

 

そんな流れで、初日ふくやま芸術文化センターで行われた式典関係は終了。

(レポート2部目につづく)

 

【行事参加レポートVol.5-2】第43回東北ろうあ青年研究討論会<2日目>

2日目です。

 

午前7時すぎに起床、みんなは一足先に食べてきた人もいれば、これからいく、という人もいる中で、どさくさに紛れて急いで朝食会場へ。

昨年は朝食会場も貸切でしたが、今回は交流会会場がそのままその宿の宿泊者の朝食会場となっていましたが、東北青研参加者は必然とひとかたまりになって、朝ごはんを食べていました。

 

7時50分ごろにご飯を食べて、急いで部屋に戻り、もう一回お風呂に入ることに。

同じ部屋の参加者から「え、また!?」と言われましたが、ひるむことなく3回目のお風呂に(笑)。

ちょうど貸切で誰もいませんでした。

 

部屋を出る準備をして、討論会会場へ向かいます。

 

9時、討論会2日目の日程が始まりました。

2日目も記念講演で、テーマは「専従職員としての30年間〜そして青年部に伝えたいこと〜」、講師は一般社団法人秋田県聴力障害者協会事務局長の加藤 薫 氏です。

初日の記念講演は、「情報提供施設」がテーマでしたが、秋田県の情報提供施設の開設はいつでしょうか?

 

わかる人は勘付いてますね。昨年の秋です。やっとこれで東北6県の情報提供施設は県レベルでの設置が完了したのです。そんな秋田の情報提供施設ですが、センター長も務めていることもあり、また前々からこの加藤講師の話はとてもいい、と聞かされていたので、とても楽しみにしていました。

 

まず、講師の生い立ちから話が始まりました。昭和40年、講師が小学6年のときに失聴してから、ろうあ運動の世界に入ったということでした。

東北のろうあ運動の先駆者といえば、今はなき板橋さん、先日の第50回全青研で特別企画に出演した青森の山内さん。そして、3人目は講師であると私は感じていますが、講師もかつてはろうあ運動に抵抗、というよりも違和感?を感じていたようです。

というのも、講師は小学6年生に失聴したわけですから、事実上は中途失聴者であるわけです(生まれつきやストレプトマイシンの副作用などといった言語獲得前に聞こえなくなることに比べると)。そういう中で、ろうあ運動に対してあまり本腰が入らなかった時期もあったそうですが、その時に板橋さんや山内さんと出会って変わった、と話していました。

とくに「結婚した人は離婚できるが、結婚しない人は離婚できない。これと同じで、ろうあ運動しない人は運動をやめる資格はない」と叱られて、やっと本腰が入ったとか。

 

この言葉はとくに福島の人が語るイメージがありますが、「板橋さんが叱る理由は、あなたを憎んでいるからではない。頑張れる力があるから、頑張れと叱っているんだ」という言葉、講師にも投げかけられたようです。福島の人はみんな口を揃えて「叱ってくれる人は未来がある」ということとほぼ同じようなことに思えるのですが、やはり叱られたことがある人、叱られたことない人と二分しているあたり、板橋さんにはなにか見えていたんでしょうか。

そんな言葉を山内さんから投げかけられ、ろうあ運動の道を貫くことにしたそうです。

 

さて、舞台は一旦東北に移ります。東北ブロックの幹部研修会、参加したことありませんが私は覚えています。1月のとても寒い時期に行われるんですよね。今は1泊2日のほうが多くなりましたが、昔は2泊3日だったそうです。ペーパーテストが設けられて、そのために前日は徹夜・一夜漬けで覚えていったそうです。講師がいうには、「いつも福島はすごい、いつも1位をとっていた」と話していましたが、たしかに東北ブロックの中では福島が圧倒的に協会の勢いはあるかもしれません(東北ブロックの各県からはさん団体の連携の良さを評価されることもあるのでそれかもしれませんが)。そのペーパーテストに対策するため勉強していきますが、その過程こそが大事と実感したそうで、正しい知識を得ることはろうあ運動をしていくためにはとても必要だ、とはっきりおっしゃっていました。

 

そんなとても寒い中で行われるブロック幹部研修会ですが、講師が若いときに先輩から「酒を買ってこい!」と頼まれたそうです。でも一つ条件があって、「手ぶらで帰ってくるな」とだけ言われて買いにいかされたそうで、猛吹雪で店も空いていなく・・・居酒屋の戸を叩いてそこのおかみさんに交渉してお酒を分けてもらったとか。ろうあ運動は常識破り(いい意味で)な展開をしてやっと動くものなのかな、と思っている自分にはすごく説得力を持たせてくれたような話でした。

 

それから、東北ブロックは絆が強い、と言われることがありますが(これは東日本大震災の前から?)、その中には昭和60年、当時全国大会の開催地が岐阜の時、日本聴力障害新聞(日聴紙)の拡大運動が活発だったそうですが、史上初めて東北ブロックが優良ブロックとして表彰されたのです。

組織力が大きい東京や大阪など大都市圏がクリアしやすいと一見思えるこの運動は、山あり・川あり・雪ありの厳しい条件で鍛えられた成果がでたのではないか、という話も合わせてありました。

 

それだけではありません。講師は30年間専従職員として活動していらっしゃいますが、その中で初めのころ、まだいい環境もなく、一人で仕事をこなしていた頃、あまりの多忙ぶりに講師は入院してしまいます。秋田の理事では当時「仕事を休めば減給」という考えが強く、一人で仕事をこなして薄給の中ではいい形で仕事をこなせることは不可能です。そんな中、福島や青森が率先してカンパ応援に入り、状況を察してくれて動いてくれたことに東北の絆を感じるとともに、講師は感激したそうです。

 

さて、そんな中を生き抜いて率先して活動してきた講師ですが、青年部に伝えたいことの一つには「チャンス」がカギになると話していました。

昭和59年の第5回全国ろうあ者演劇祭典の開催、平成4年の第40回全国ろうあ者大会の開催、この二つの行事、どちらも秋田県の開催ですが、地元から猛反対された中押し切って開催したということでした。

演劇祭典は前年度開催の大阪で二桁赤字を生んだことが大きな引き金になり、秋田理事は赤字を危惧する声が多くなり猛反対。しかしこれも東北の仲間の応援によって無事成功させた。

全国大会も秋田開催を提案したら、「運動を私物化している」と批判の声。当時秋田県は東北から一歩遅れたろうあ運動をしていたということもあり、運動力を高めるためにも秋田開催を提案したそうです。結果猛反対を押し切り、協会会員も値上げして当時日本一高い会費になったものの、会費値上げの影響は予想よりも小さく、それよりも秋田大会は成功に終わったそうです。

 

最後に講師が伝えたかったこと、それは時間をもっと有効活用して、発展的な運動、そして自分自身の人生を楽しむ。この3つでした。

時間は帰ってきません。赤字をうんだ大阪の演劇祭典もタイムスリップして成功に持っていくのは無理なのです。

ろうあ者一人一人が大事にされる社会、貴重な文化である手話の言語承認、これらの実現にはもっと発展的な運動が必要ですし、その中では手話通訳制度も充実させなければいけません。

そして、なにより自分の人生を楽しむことです。聞こえないからこそ体験できるものもたくさんあります。一緒に喧嘩したり、笑い合えたりできる仲間こそ、自分の人生の糧になります。

そう、講師は告げて、この記念講演は時間を迎えました。

 

質疑応答を得て、フィナーレに入ります。

来年度2019年の討論会開催地は・・・・福島県福島市です。

福島の参加者はみんな壇上に上がり、来年の参加を呼びかけて、討論会は無事に終了。

 

そのあと角館周辺で比内地鶏の親子丼をいただき、福島からの参加者は車に二台に別れて無事福島に帰郷。秋田を午後2時ごろ出発し、福島駅についたのは午後6時半過ぎ。自宅についたのは仮眠休憩も含めて午後9時ぐらいにつきまして、無事今年の東北青研無事終了。

f:id:daichan_coda:20170818101829j:plain

 

来年は、第44回東北ろうあ青年研究討論会が福島県福島市での開催が決まり、現在福島県青年部より実行委員会の手伝いを頼まれてるとか頼まれてないとか。でもやらせていただけるのなら、やりたいですね。あ、それよりも第52回全国ろうあ青年研究討論会が秋田開催なので、また来年秋田にいきます。宜しくお願いします。

 

(おわり)

【行事参加レポートVol.5-1】第43回東北ろうあ青年研究討論会<1日目>

■第43回東北ろうあ青年研究討論会 in 秋田
=主催:東北ろうあ連盟 青年部/主管:一般社団法人秋田県聴覚障害者協会 青年部=
2017年7月8日(土)~9日(日) 秋田県仙北市 あきた芸術村温泉ゆぽぽ

 

1年ぶり!の東北青研のレポートです。

2009年に第35回東北ろうあ青年研究討論会として最後の単独開催から丸8年。2010年から2013年までの4年間は東北ろうあ者大会・東北地区手話問題研究大会の「青年のつどい」に組み込まれて併催開催となりましたが、2014年より再び単独開催に移行して今年で4回目の開催になります。

東北大会組み込みのときの開催では軒並み平均30人程度の参加でした。ただし、東日本大震災発生の2011年のみ61人として突出した参加人数となって、4年間の開催がありました。

再単独移行してからは27名、44名、46名と推移し微増傾向でしたが、今年は54名と単独移行初年の2倍の参加者になりました。

背景としては聞こえる人の参加が大幅に増えました。昨年の東北青研で聞こえる人の参加はわたし1人のみでしたが、今年は福島から6人・岩手と秋田からそれぞれ1人以上参加しました。

昨今、青年部との活動として、全通研のN-Action委員会が関係を持つようになった中、このような聞こえる人の参加者が増えることは非常に大事なことだと感じました。

 

7月8日(土)午前4時、目を覚まします。

前々から予告していた通り、交通費節約のため、自家用車で向かうことを決めていて、いわきから会場までは約6時間程度かかります。

そのため、自宅出発予定は5時45分頃で、様々な準備等を含め4時に起きました。

 

5時50分、予定より5分遅れましたが無事出発。常磐道の全線開通により仙台までは常磐道ルートのほうが近道(東北道ルートは距離が30キロ遠い代わりに時間が5分しか変わらないのと全線2車線)ですが、福島駅で福島からの参加者を拾うために東北道ルートを選択し、磐越道東北道と乗り継ぎます。

7時35分に福島県聴覚障害者情報支援センターに到着し2人、7時45分に福島駅西口に到着し2人乗せて、一路みちのくを北に突っ走り、昼食休憩を挟んで12時45分に無事会場に到着。どこかでアクシデントがあったら確実に遅刻してました。

 

無事会場着いて受付を済ませ、早速記念講演に突入します。今年も昨年に引き続き記念講演2本柱です。

今年が歴史の1ページになろうとしている背景がありますが、その中で行われた記念講演は、実にすばらしいものでした。

初日の記念講演は、一般財団法人 全日本ろうあ連盟 青年部 中央委員 田原 里絵 氏による、「青年部活動のために~情報提供施設職員と青年部員の視点から~」というテーマでご講演をいただきました。

最初は青年部の活動についてお話をいただきました。第1回全青研京都(差別青研)、そして1969年の全国青年部発足、青年部の活動3本柱(仲間づくり・学習づくり・要求づくり)について学び、軽い休憩タイムを挾み、いよいよ本題へ。

突然の話でしたが「”言葉にできる”は”武器になる”」という提案がありました。これ、すなわちどういうことか?いろいろ考えたのですが、青年部の活動3本柱にかかってるんですよね。

わたしたちが仲間を作ろうとするとき、「こんにちは、はじめまして」という言葉で始まります。そして学習するときに「ここがわかりません」という疑問から学習が成り立ちます。そのあと「ここがおかしいとおもいます」という感覚や感情を言葉にして、これまでろうあ運動を続けてきました。

つまり、「"言葉にできる"」ことは"自分を変える"ことでもあり"社会を変える"ことでもあり、"未来を変える"ことでもあると思うのです。

 

二つ目の話は、主に聴覚障害者にとって生きるために必要な”見える情報”についてのテーマでした。目で聴くテレビの職員従事を通して「当事者による情報発信」と「災害時における情報保障」がやはり重要だということを提起しました。目で聴くテレビができた背景も災害が大きなきっかけでした。

 

その後、情報提供施設についての話がありました。ろうあ運動を研究されている方はすでにわかると思いますが、情報提供施設は昔「ろうあ会館」と呼ばれ、今でも大阪の情報提供施設ではその名前が残っています。お願い運動から権利要求運動に発展した際、民法11条の改正、「口のきけないもの」文言が入った道路交通法88条/自動車運転免許取得運動、手話通訳制度化に並ぶ4本柱の活動が展開され、1990年に身体障害福祉法改正により情報提供施設の建設が法制化されます。現在に至っても北海道および広島県の2道県および仙台・さいたま・千葉・相模原・新潟・静岡・浜松・名古屋・大阪・神戸・岡山・広島・福岡・熊本の各政令指定都市にはまだ設置されていません。東北ブロックは2016年10月に秋田県で開設されたことで県レベルでの設置が完了しましたが、仙台市レベルではもちろんのこと、岩手や福島など面積が広大な県では1つだけでは不十分ともいえるなど、法制化して四半世紀を迎えても未だなお設置だけの課題があります。

多くの情報提供施設では、字幕や手話入りビデオの制作や貸出が行われており、情報提供施設の法制化もその機能がコアになっていますが、東京にある聴力障害者情報提供センターに委託し、そこで制作されたビデオが各地の情報提供施設に振り分けられて利用者に提供されるという仕組みを取っています。

東北ブロックだけでも、岩手・秋田のように駅から数分という至近距離に立地しているセンターもありますが、福島や青森のように駅からバスを乗り継いでという状況だったり、福島の場合いわきや会津からは90分以上の所要時間がかかるなど、依然利用者が使いやすいようには設置されていないケースが多く、地元自治体も”設置してなんぼ”という考えがあるところも多いです。実際のところ福島の場合は2013年に開設されましたが、所在地は元の協会事務所を拡張して設置されています。このようなケースを見ると、法制化されてもなお、依然として機能を発揮できているとは考えにくいです。

長々と垂れてしまいましたが、講演の中では機能について触れ、「手話通訳者等の派遣事業」コーディネートや、「生活保障等相談支援」のサービスの提供が行われています。

 

最後に、講師が伝えたいこととして、ICT(通信技術を使ったコミュニケーション、例:LINEやSkypeなど)およびIoT(インターネットコネクトデバイス、別名スマートデバイスとも)を使って攻めることが大事、と訴えかけてくださいました。

しかし、これらの技術はまだまだ発展途上でもあり、講師はこの点についても触れ、一つの武器として使うことを訴えかけると共に、「言葉にできる」ことも大事と改めて強調し、「あたりまえを疑うこと」から始まると締めくくり、この講演を終えました。

 

そのあと休憩をはさみ、ワークショップが行われ、テーマは「情報提供施設」とされ、求めることなどを参加者5グループに分かれて話し合いました。
聞こえるわたしは、あえて話し合いを眺めることにしか過ぎないようにしていましたが、様々な意見が出されている中で、これを要求することが改めて大事だと感じました。

 

17時に記念講演・ワークショップ関係が終了し、18時30分に始まる交流会まで自由時間になりました。

今回の部屋は4人1部屋という形で、昨年東北青研で知り合った岩手のろうの方や宮城の参加者と一緒の部屋でした。

自由時間の間、灼熱のように燃える太陽に当たり流した汗を流すために、みんなでお風呂に入り、裸のおつきあいをして、無事18時30分、交流会がスタートしました。

 

秋田名物の横手やきそばなどが振るわられ、参加者はそろって舌鼓を打っていました。

そして、ゲームが行われ、伝言ゲーム(※手話禁止)が行われ、わたしたちのチームは東北楽天ゴールデンイーグルス(東北・仙台拠点のプロ野球チーム)がテーマで、3番目のリレーラーでしたが、野球の身振りだけで肝心の「楽天」を示すものが抜かれた状態でリレーされ、ほぼほぼ全員ノックアウト。司会のヒントでやっと答えを探り出すものでした。

楽しい交流会も21時になり、強制退出になり、参加者はみんな揃ってお風呂へ。

わたしは大浴場のぬるま湯で青年部中央委員の2人といろいろな会話をして、時刻は22時。

310部屋に突入して、講師を囲んでの二次会が始まり、気が付けば24時までくっちゃべり。翌日運転を控えてるので、ほどほどにして部屋に戻り、25時ぐらい?に就寝。

 

(1日目おわり)

 

お詫び:2018年度も引き続きいわき市に残留することが決定しましたが、手話サークルの会員を更新するかどうかはちょっと決め兼ねてます。

それから、第49回全国手話通訳問題研究集会のレポートですが、頭の記憶が薄れかかってるので、間違った文言にて誤解を与えるのを防ぐためにも、現状発表しているレポートによって打ち切ります。だって、来月で1年だもん。ごめんなさい。

Re-read Suddenly

はじめに

ふとしたタイミングで、「障害者権利条約」(正式には「障害者の権利に関する条約」)ってどんなんだったっけ?と思い、読み返すことにしました。ただ、自分が読み返すだけではもったいないというより、せっかくならブログのネタにしようと。そして、知らない人に知ってもらおうと思いまして。

 

「障害者権利条約」は、ここ数年の話かと思いきや、実は2007年に日本政府はこの条約に署名しています。そのあと国内法の整備、主に障害者基本法障害者雇用促進法、障害者差別解消法の成立によって、2013年に日本政府はこの条約の批准を承認しています。翌2014年には、国連でも承認が確認されています。

 

わからない人にはわかりやすく読んでもらいたいと思いますので、ろうあ者(聴覚障害者を含む)や手話通訳者に関係のある項目について一部抜粋し、みていこうと思います。独自解釈ですので、間違った見方をしていましたら、ご連絡いただければ幸いです。
なお、障害者権利条約の条文は、日本政府にて翻訳されており、外務省のホームページから見ることができます。

もくじ

第二条 定義

この条約の適用上、
 「意思疎通」とは、言語、文字の表示、点字、触覚を使った意思疎通、拡大文字、利用しやすいマルチメディア並びに筆記、音声、平易な言葉、朗読その他の補助的及び代替的な意思疎通の形態、手段及び様式(利用しやすい情報通信機器を含む。)をいう。
 「言語」とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう。

 これは、障害者権利条約内で列挙する各条項に対して、統一的な解釈を求めるために、また各条項の見解を統一するためのいわば前置きですね。

「意思疎通」、これは「コミュニケーション」という言葉に置き換えられることがありますが、そのツールとして言語を用いて行われること、さらにはその言語の中には非音声言語の代表として「手話」が挙げられています。

つまり、障害者権利条約内では、言語として手話も含みますよ、ということになります。

 

第四条 一般的義務

1 締約国は、障害に基づくいかなる差別もなしに、全ての障害者のあらゆる人権及び基本的自由を完全に実現することを確保し、及び促進することを約束する。このため、締約国は、次のことを約束する。

 

(a) この条約において認められる権利の実現のため、全ての適当な立法措置、行政措置その他の措置をとること。
(b) 障害者に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し、又は廃止するための全ての適当な措置(立法を含む。)をとること。
(c) 全ての政策及び計画において障害者の人権の保護及び促進を考慮に入れること。

 

 (以下省略)

 締結国(いわゆる批准を承認した国)では、障害を理由とした様々な差別に対して、人権と基本的自由を完全に実現、さらに促進することを約束する、と書かれています。その中で、法律の制定や、既存の法律の修正、さらには国策等さまざまな政策に対して、障害者の人権の保護や障害者が社会参加できるような促進を考慮に入れることを義務にする、と明記しています。

 

第五条 平等および無差別

1 締約国は、全ての者が、法律の前に又は法律に基づいて平等であり、並びにいかなる差別もなしに法律による平等の保護及び利益を受ける権利を有することを認める。
2 締約国は、障害に基づくあらゆる差別を禁止するものとし、いかなる理由による差別に対しても平等かつ効果的な法的保護を障害者に保障する。
3 締約国は、平等を促進し、及び差別を撤廃することを目的として、合理的配慮が提供されることを確保するための全ての適当な措置をとる。
4 障害者の事実上の平等を促進し、又は達成するために必要な特別の措置は、この条約に規定する差別と解してはならない。

 いわゆる「障害者差別解消法」が規定された理由の核になる部分です。締結国では、法律に基づいて障害がある人もない人も極めて平等であること、さらに障害を理由とした差別は禁止、不備がある場合には保護することも規定されています。平等を促進すること、平等を求めること・差別をなくすこと・合理的配慮の提供が行われるために適正な措置をとることを求めています。

日本での「障害者差別解消法」では、大きく二つの部分が中心となっており、

  • 障害を理由としたあらゆる差別の禁止
  • 合理的配慮の提供が、公的機関では罰則規定がある義務、一般企業等では罰則規定がない義務

になっています。

 

第七条 障害のある児童

1 締約国は、障害のある児童が他の児童との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を完全に享有することを確保するための全ての必要な措置をとる。
2 障害のある児童に関する全ての措置をとるに当たっては、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。
3 締約国は、障害のある児童が、自己に影響を及ぼす全ての事項について自由に自己の意見を表明する権利並びにこの権利を実現するための障害及び年齢に適した支援を提供される権利を有することを確保する。この場合において、障害のある児童の意見は、他の児童との平等を基礎として、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
教育部分が大きくクローズアップされていますが、平等を基礎として、日本では"教育を受ける権利”が障害があっても等しく享有するために必要な措置をとること、いわゆる”特別支援教育”等を行う際には児童に対する利益を主に考慮されなければならないこと。さらに、子どもたちが自由に意見を表明することや、年齢や障害に応じた適切な教育等を受ける権利を有するということになっています。
 

第九条 施設及びサービス等の利用の容易さ

(前略)
2 締約国は、また、次のことのための適当な措置をとる。
(省略)
(e) 公衆に開放される建物その他の施設の利用の容易さを促進するため、人又は動物による支援及び仲介する者(案内者、朗読者及び専門の手話通訳を含む。)を提供すること。
この部分では、様々な公共施設やサービスを受けるために、必要な支援措置を受けることを保障する部分になります。
公共施設を利用するために、またその利用しやすさを進めるために、手話通訳者等の人的支援を提供することが明記されています。
 
 

第十一条 危険な状況及び人道上の緊急事態

 締約国は、国際法(国際人道法及び国際人権法を含む。)に基づく自国の義務に従い、危険な状況(武力紛争、人道上の緊急事態及び自然災害の発生を含む。)において障害者の保護及び安全を確保するための全ての必要な措置をとる。

ニュージーランド手話言語法(New Zealand Sign Language)の効果の一つとして、日本の聴覚障害者や手話通訳関係者に代表されて知られているのが、地震発生時の手話通訳ですが、そのことはこの部分にあたります。

日本の場合、地震大国であり、自然災害の発生も他の国に鑑みると非常に多いです。ただ、東日本大震災熊本地震では、手話通訳が配置されていても、きちんと報道されているのはNHK程度であり、他の民間放送局では省かれて放送されていることが多いです。しかも、NHKですら、官房長官等政府高官から離れて通訳しているため、ワイプで抜き出して放送していることから、あまり見やすいとはお世辞にも言えません。

聴覚障害者の安全や保護のためには、ニュージーランドのように近く、横で手話通訳できるような対応が待たれます。

 

第十九条  自立した生活及び地域社会への包容

 この条約の締約国は、全ての障害者が他の者と平等の選択の機会をもって地域社会で生活する平等の権利を有することを認めるものとし、障害者が、この権利を完全に享受し、並びに地域社会に完全に包容され、及び参加することを容易にするための効果的かつ適当な措置をとる。

障害がある人の社会参加を追求する項目ですね。日本では手話言語条例等で地域単位ですが、平等に参加できるよう保障しているところもありますね。

 

第二十一条 表現及び意見の自由並びに情報の利用の機会

 締約国は、障害者が、第二条に定めるあらゆる形態の意思疎通であって自ら選択するものにより、表現及び意見の自由(他の者との平等を基礎として情報及び考えを求め、受け、及び伝える自由を含む。)についての権利を行使することができることを確保するための全ての適当な措置をとる。この措置には、次のことによるものを含む。

(a) 障害者に対し、様々な種類の障害に相応した利用しやすい様式及び機器により、適時に、かつ、追加の費用を伴わず、一般公衆向けの情報を提供すること。
(b) 公的な活動において、手話、点字、補助的及び代替的な意思疎通並びに障害者が自ら選択する他の全ての利用しやすい意思疎通の手段、形態及び様式を用いることを受け入れ、及び容易にすること。
(c) 一般公衆に対してサービス(インターネットによるものを含む。)を提供する民間の団体が情報及びサービスを障害者にとって利用しやすい又は使用可能な様式で提供するよう要請すること。
(d) マスメディア(インターネットを通じて情報を提供する者を含む。)がそのサービスを障害者にとって利用しやすいものとするよう奨励すること。
(e) 手話の使用を認め、及び促進すること。

わたし個人では、ここが一番手話言語法や手話言語条例の制定意義に迫れるところだと思います。特に最後には、手話使用の促進が明記されています。

また、拡大解釈にはなるかもしれませんが、一番最初では、意思疎通についての権利を行使できるように、締結国がなんらかの措置をとることも明記されています。 つまり、すごくド派手な解釈にはなるかもしれませんが、都道府県および市区町村内で手話通訳の設置を義務づけるようなこともこの条文からはなんら、不思議ではないのです。

それから、(b)では、公的活動での手話による意思疎通が保障されています。簡単にいえば、最近聴覚障害者が相次いで市区町村議会の議員になられたりしましたが、議会における手話通訳の配置や手話によってコミュニケーションをとることは、この条文から保障されていることになるのです。

 

第二十四条 教育

1 締約国は、教育についての障害者の権利を認める。締約国は、この権利を差別なしに、かつ、機会の均等を基礎として実現するため、障害者を包容するあらゆる段階の教育制度及び生涯学習を確保する。

(省略)

2 締約国は、1の権利の実現に当たり、次のことを確保する。

(a) 障害者が障害に基づいて一般的な教育制度から排除されないこと及び障害のある児童が障害に基づいて無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと。
(b) 障害者が、他の者との平等を基礎として、自己の生活する地域社会において、障害者を包容し、質が高く、かつ、無償の初等教育を享受することができること及び中等教育を享受することができること。
(c) 個人に必要とされる合理的配慮が提供されること。
(d) 障害者が、その効果的な教育を容易にするために必要な支援を一般的な教育制度の下で受けること。
3 締約国は、障害者が教育に完全かつ平等に参加し、及び地域社会の構成員として完全かつ平等に参加することを容易にするため、障害者が生活する上での技能及び社会的な発達のための技能を習得することを可能とする。このため、締約国は、次のことを含む適当な措置をとる。
(省略)
(b) 手話の習得及び聾社会の言語的な同一性の促進を容易にすること。
(c) 盲人、聾者又は盲聾者(特に盲人、聾者又は盲聾者である児童)の教育が、その個人にとって最も適当な言語並びに意思疎通の形態及び手段で、かつ、学問的及び社会的な発達を最大にする環境において行われることを確保すること。
4 締約国は、1の権利の実現の確保を助長することを目的として、手話又は点字について能力を有する教員(障害のある教員を含む。)を雇用し、並びに教育に従事する専門家及び職員(教育のいずれの段階において従事するかを問わない。)に対する研修を行うための適当な措置をとる。この研修には、障害についての意識の向上を組み入れ、また、適当な意思疎通の補助的及び代替的な形態、手段及び様式の使用並びに障害者を支援するための教育技法及び教材の使用を組み入れるものとする。
5 締約国は、障害者が、差別なしに、かつ、他の者との平等を基礎として、一般的な高等教育、職業訓練、成人教育及び生涯学習を享受することができることを確保する。このため、締約国は、合理的配慮が障害者に提供されることを確保する。

まず、1からですが、いわゆる”教育を受ける権利”を障害があっても実現するために、あらゆる段階の教育制度等を確保する、と明記されています。日本政府はこの部分で”特別支援教育”が用いられていますよね。ネーミングセンスは置いておいても。

そのことにより、2ではそのために必要な措置として、日本では義務教育となっている小学から中学においての教育では排除をされないことを保障しています。

そして、いわゆる”特別支援教育”の枠組みの中では、手話ができる専門性のある教員を設置することなどの合理的配慮、手話の習得やろう文化における非特定言語の習得・促進を容易に進めること、また聴覚障害を理由として手話に限定せず、その障害がある子どもに対しての意思疎通手段は限定しないことを明記しています。

最後の項目では、日本の場合大学や専門学校において、障害関係なしに権利を受けることができることを保障しています。日本の場合、手話言語法の制定がまだで、大学等によっては手話通訳を設置しないという大学もまだ数多く残っています。

 

第二十七条 労働及び雇用

1 締約国は、障害者が他の者との平等を基礎として労働についての権利を有することを認める。この権利には、障害者に対して開放され、障害者を包容し、及び障害者にとって利用しやすい労働市場及び労働環境において、障害者が自由に選択し、又は承諾する労働によって生計を立てる機会を有する権利を含む。

(省略)

ここの部分が核となって成立された法律が、「障害者雇用促進法」ですね。

話をだいぶ昔に遡りますが、運転免許裁判が行われていた頃、職業選択の自由が阻害されてきた時代がありました。これは、当時の道路交通法88条で聴覚障害者等が”口のきけないものには免許を与えない”という不合理な法律の元で阻害されてきました。当時、聴覚障害者は免許のいらない自転車までしか運転できず、トラクターなどの耕運機を含む小型特殊自動車ですら運転免許が与えられず、”農家”という職業選択ができなかったのです。運転免許裁判は最高裁までもつれていき、結果は惜しくも敗訴しましたが、各地で行われた署名運動等により、甘くみておけなかった今の警視庁は運転免許裁判期間中に道路交通法の改正を規定。運転免許裁判終結後の翌年から補聴器着用可能で90デシベル以上の警告音が聞こえれば運転免許を与えられることになっていったのです。

あの時代からみれば、画期的な進化なのかもしれませんが、それでもなお「障害者雇用促進法」では2%前後の雇用義務が課されています。いつか、その数字がなくなる時が来た時、障害者が円滑に職業に就け、社会参加が進んで行くのだと思います。

第三十条 文化的な生活、レクリエーション、余暇及びスポーツの参加

(省略)

4 障害者は、他の者との平等を基礎として、その独自の文化的及び言語的な同一性(手話及び聾文化を含む。)の承認及び支持を受ける権利を有する。

(省略)

手話言語法や手話言語条例が制定される意義、もう一つはここにあります。ろう文化や手話言語等の同一性を承認、支持される権利を持っている、ということです。

手話言語条例がまだ2%にも満たない自治体で細々と作れていきますが、ほとんどの条例では”ろう文化の尊重”が掲げられています。この文化生活等の保障は、ろうあ者のアイデンティティを尊重することにもつながっていきます。

 

まとめ・感想

ということで、ここまで大体ろうあ者や手話通訳者に関係のある条文を列挙していきましたが、改めてみるとこれだけの材料が揃っていて、手話言語法なしに条約の求める水準に達したと明記するのは、虫のいい話ではないでしょうかね。

各地の手話言語条例を見ていっても、福島県郡山市のように災害対応を明記しているところ、中核市政令指定都市都道府県では教育管轄がありますから教育に関する項目を明記している条例も何個かあります。群馬県などはいい例ですね。

それほどまでに、手話言語法として明記されるべき条項が多いということです。だからこそ、手話言語法が必要なのであるのです。

地震が起きた時どうするか、聞こえる人が聞こえない子どもを産んだ時どうするか、今生活しているろうあ者を政府はどこまで守れるのか。そして、ろうあ者が明るく生きる世の中にするためには、ろうあ者を含め障害がある人に理解を示している一般の方たちには、もっともっと障害者基本法や障害者差別解消法などの成立された法律を拡充していくことはもちろん、この条約に明記されていないようなことを国は新法として明記してもいいのです。

昨年春、障害者差別解消法が施行され、もう1年が経過しました。障害当事者からすると、「障害者差別解消法が普及していない」という辛辣な意見も飛び交っていますが、ごともっとな話で「そんな法律あるの?」というよりも、「障害者への差別はほとんどなくなった」という世論の見方は一向に変わっていません。障害者権利条約が多くの人にまだ普及されていない中、国の法律という形で、障害者基本法や障害者差別解消法が制定されて、条約に基づいていい方向へ修正するという形はすばらしいですが、障害者をデメリットと捉えている企業や個人があまりにも多くて、そこをもう少し変えて行くことがこの先、これらの法律を普及させていくためにもやらなければいけないことです。

何年後になるかわかりませんが、全日本ろうあ連盟では手話言語法や情報・コミュニケーション法の制定をこれからも辛抱強くやっていくことと思います。昨年、手話言語法制定運動は全国の1700以上ある自治体からGOサインが出て、国もその力を無視できないほどになりました。自民党は手話言語法関連の意見交換会を度々実施しており、世論はさておき、国会内でも相当機運が高まっています。

それを普及させるためにも、日本人が障害者に対するデメリットな見方を直していかなければ、意味は成しても、思ったような制定効果が得られないことも十分あり得るのです。

手話言語条例もそうですが、「できました、おめでとう!」だけでは意味がないのです。それをきちんと普及させて、ろうあ者が明るい社会に参加できてこそ、やっと制定する意義があると思うのです。

私たちはまだ制定されていない手話言語条例の制定はもちろんのこと、手話言語法制定に向けて、もっともっと味方を作らなければいけないかもしれませんが、いつか私たちの願いが叶う時はいずれやってきます。障害者権利条約をきちんと把握し、「まだまだ足りない!」ということを世論を巻き込んで、政府に訴えかけることが、地道ですが一番の近道なのかもしれません。

 

P.S.6月25日まで1ヶ月を切りましたので、明けるまで更新が滞ると思いますが、ご理解ください。またいつものようにふらっと戻ってきます。

Our Summer

今年もこの季節がやってきました。

 

f:id:daichan_coda:20170523201155j:plain

そう、「全国手話通訳問題研究集会」です。

私は、福島・郡山集会(2014年/第47回)から3年連続皆勤賞継続中。
特に2年前の三重・鈴鹿集会(2015年/第48回)では全国手話通訳問題研究会N-Action委員会が正式に組織昇格された(2014年までは「U-35」として非公式的活動)ために、より一層次世代会員が参加すべきという重要度が上昇しています。

 

「全国手話通訳問題研究集会」、略して「全通研集会」と私たちは呼んでいますが、なんぞや?という方に簡単にご説明を。

1968年、第17回全国ろうあ者大会が福島県福島市で開催されました。この時、今のように単独ではなく、第2回全国ろうあ青年研究討論会、そしてこの「全通研集会」の前身である手話通訳者会議が開かれ、多くのろうあ者や手話通訳者が福島に集いました。

第2回全国ろうあ青年研究討論会、第1回手話通訳者会議を提唱したのは、3年前、奇しくも全国手話通訳問題研究会設立40周年の記念の年に急逝した板橋 正邦さんでした。

当時、1968年というと、25年ぶりの小笠原返還や3億円強奪事件に騒ぎ、また聴覚障害者の運転免許裁判の最中、まさに今のろうあ運動の成果はこの最中だったのです。

 

あれから49年、今年ついに、全国手話通訳問題研究集会が50回目の節目を迎えることになります。

福島開催だった第1回は71名、そのあと9年後に開催された第10回の福島集会では15倍以上の1,194名が福島市に集いました。第1回開催の8年後、1976年に全国ろうあ者大会から分離されて、今の夏の季節になりました。

以来、多くの歴史を刻み、手話通訳者の夏は全通研集会を抜きに終われないような恒例行事となっています。

1985年には、分科会を基本とした「全国手話通訳問題研究討論集会」が初めて大阪で開催。以後、2014年まで、年2回全国の仲間と考える機会が出来てきて、多くの会員間交流も活発になりました。

1988年、昭和63年には手話通訳制度が動きだします。厚生労働省が手話通訳士試験に向けて動き出し、平成元年に初めての手話通訳士試験を実施。相次ぐ頸腕症候群で各地の手話通訳者が相次いで労災認定されて、手話通訳者の健康問題も大きくクローズアップされていった年でした。

2015年には、分科会部門を全国手話通訳問題研究討論集会より吸収し、以後年1回の集会に戻りました。今や夏の風物詩であり、1,000人を超える手話通訳者とろうあ者が一斉に会し、福祉・人権・コミュニケーション・歴史を学び、議論を深める集会として在り続けています。

 

今年の集会の要項は、以下のリンク(行事案内に飛びます)から見ることができます。

www.zentsuken.net戦後72年になり、昨年は当時アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏が初めて原爆被爆地に足を踏み入れ、話題になりました。今回の開催地は広島県の東部、東京から新幹線「のぞみ」で3時間半、新大阪からは1時間で到達する福山市で開催されます。

 

詳しい案内は省きますが、講座にはヒロシマをめぐる講座や、被爆体験などが肝となっており、講座関係には例年以上に地域色が映えた形になりました。

また、分科会は昨年同様、8の分科会が開かれ、活発な議論が繰り広げられることでしょう。

 

昨年は都合で2日目からの参加でしたが、例年では1日目のお昼に始まり、その日の夜は交流会で老若男女問わず交流を図り、2日目は朝から勉強。夕方にはN-Action委員会のつどいがありますので、そこに顔をだし、次世代活動のヒントを参加者とシェアします。そのあと交流会があり、3日目は寝不足でありつつも気を引き締めてお昼まで勉強するという流れです。

 

この集会が安否確認、とまではいかないものの、全国の仲間と会える貴重な機会ともあって、交流目当てで参加する方も多くいます。仲間と会うっていうのは簡単かもしれませんが、ヒントを得る、一緒に考えるというのはなかなか簡単にはできません。こういう機会は大事にしていかなければいけませんね。

私自身も、この集会に参加し続けて増えている仲間もいます。年代は関係なく、学びたいことが学べる機会、そして多くの仲間に会える機会です。

 

今年は過去3年の開催地よりも遠い広島県での開催ですが、今のところ参加を検討しています。福山市内のホテル、今のところは集会申込を通じて、旅行代理店が宿泊予約を受けていますが、東京からだと新幹線往復+ホテルというセットパックプランもあるようで、東京以東から参加の方はそちらも検討してみては。

 

P.S.今年もN-Actionのつどいはあるようです。2日目の夜は次世代活動の議論を深めて、同年代の仲間を増やそう!

 

2017 Started

会員として所属している「福島県手話通訳問題研究会」(全国手話通訳問題研究会福島支部、福島通研)の定期総会が、4月16日に行われました。

 

京都支部などは4月30日とゴールデンウィーク真っ最中の開催だったり、地域によって開催時期がバラバラだったりしますが、おおまかにはこの時期に定期総会が集中することが多いですよね。

 

福島通研の会員としては2年目のまだまだ新米会員ですが、協会や連盟事情は正直親の関係や家族の関係もあり、2年目とは口が裂けても言えないほどではありますが、2年生らしくやっていこうと思うほどです。

 

そんな2年目・新米会員が臨んだ定期総会ですが、今年は会費が1,000円値上がりし、10,000円になりました。今まで全国的に珍しく4桁をキープしていましたが、宅配・郵送業界における輸送内容見直しや基本料金の値上げ、会員増加に伴う支部内活動の充実を背景に執行部より提案され、特に意義もなく承認されました。これで東北でもっとも安い会費の地位を失うことにはなりますが、日本有数の手話のまち、福島での活動が充実するのであれば安い御用なのかもしれません。

会員増加の話をチラっとしましたが、昨年2016年度の目標が192名だったのに対し、198名と大幅に増えました。相馬・双葉地域のいわゆる”浜北班"が大幅に活動を再開した、昨年福島通研の研修機会(=福島県通研講座)が久しぶりに浜北地区で開催されたこともあり、さらには耳の日記念集会が協会主催ではあるものの浜北地区で開催されたこともあって、浜北地区の会員数が大幅に増えたことが占めているようです。全国47都道府県に全通研の支部があるのと同じように、都市・地方レベルによって手話通訳制度が変わるという極端な話はありません。もちろん都市部にはそれなりに手話通訳を利用する人が多いということはあるにせよ、地方部では手話通訳の派遣がゼロかというとそういう話ではありません。我々が目指すべきところは、どの場所であっても公平かつ公立な手話通訳を利用できる環境を構築することであるからです。

 

定期総会内で”新米会員”ながら色々発言させていただきましたが、昨年多くの行事に参加しており、中には「福島県ろうあ運動ニュース」の表紙にデカデカと載っていても参加者ゼロという扱いをされたり(執行部より謝罪を受けていますが)した中で、青年部活動やろう協経由で申し込むものについては、事後でもいいので連絡をいただきたいという方針を示していただきました。こうやって、お互い思ってるものをいう機会というのはなかなかないですから、毎年毎年(といいながら、2回しか参加していませんが)事情があるにせよ、予定を空けて定期総会には参加しなければいけないと思います。会員が執行部に対してできる協力の一つ、つよく言えば責務の一つにしかすぎないと思うからです。

 

全国手話通訳問題研究会(全通研)では、設立41周年目に当たる2015年から2024年までの長期ビジョンをすでに策定していますが、福島支部は諸事情により今年より2024年のビジョンを策定しました。全通研では「きわめる」「たかめる」「はたらきかける」の3本柱を基本とし、活動を構成しています。長期ビジョンでも、この3本柱に基づいて根を下ろし、長期スパンでの活動の方向性を示して活動を行なっています。

かねてから、福島通研に要請していたN-Action組織の構築については、きちんと福島通研長期ビジョン2024内にて、「たかめる」の中に「N-Action活動」が盛り込まれました。すでに東北ブロック内でもN-Action組織の方向性など、ブロック役員同士での話が進んでいるよう(2017.03福島通研内配布:東北ブロックニュースより)であり、他の地域に遅れを取っている状態ではありますが、着実と前進している形になります。

 

福島通研は、今年設立40周年を迎えます。7月2日には、郡山市にて記念式典を開催し、全通研三代目会長の石川芳郎氏をお迎えして、記念講演をいただく予定です。

全通研も2014年、設立40周年を迎えました。50年前、手話通訳者会議が福島で初めて開催されたのをきっかけに、手話通訳者同士の連帯感を強めて、大きく国や地方を変えてきました。今わたしたちが考えなければいけないことは、手話通訳者の後継者を作るということ。50年前、40年前と一歩リードをして活躍してきた先輩たちは大幅に離脱し、手話通訳という仕事や協力が女性だけのものとは思わなくなってきた背景も含み、これからさらに手話言語の確立や手話言語の成立に対する議論が活発になると思います。時間の問題かもしれませんし、時間の問題であってほしいですが、これから聴覚障害者の社会参加ももっともっと進んで行きます。今の手話通訳制度を維持するために、わたしたち若い人の活躍が望まれてはいます。しかし、わたしたちが活動に期待が持てないのと同じように、わたしたちが生き生きと活動できるような環境が全国で構築されないことには、明日の手話通訳制度はありません。

 

今年は今後の人生を決めるために、また一つの人生の通過点に決着をつけるために、思ったように動けないこともあるかと思いますが、会員らしくできる範囲で最大限努力し、一年間活動を楽しんでいこうと思います。

Uncomfortable World

気が付けば3ヶ月過ぎていました。どうもありがとうございました。

 

ブログって気負って書くもんじゃないと思うんですけど、まあ三日坊主の集合体になりつつありますね。

 

今日は私が置かれている話をしようと思います。

 

私の父親福島県福島市出身、母親はいわき市出身です。

父親のお兄さん(おじ)は長らくどっかの団体の事務局長やってたり、で父親とおじの兄弟関係は福島県内では知らない人を探すのが苦労するレベルだったりするような関係で私は育ちました。

父方の実家帰ってもおじと話すときは手話を使いますし、おじの奥さん(おば)も手話通訳者であり手話通訳士ですから当然のことながら家庭内では手話が溢れている環境で育ち、必然的に手話を覚えていきました。

 

父親は毎週のように聴覚障害者会関係の役員会や手話指導で出かけ、母親も女性部の活躍等々で夜にひとり家に置いていかれるような生活もあったり、母方の実家が近隣ですからそこで夜帰ってくるまで待っていることもあり、そういう生活故に寂しがり屋に育ってしまった性格もあるようで。

ただ、ときたま連れて行かれることもあり、平気で地元での行事にも連れて行かれたりしました。まだ今のように政見放送に手話通訳が導入されていなかった頃、ビデオ学習会に連れて行かれたりされたのもいい思い出です。

 

しかしながら、手話の世界に連れて行ってくれた父親や母親の甲斐虚しく、私はどんどん地元(市レベルで)から嫌われていくようになっていきました。

「生意気」だと言われたり、「調子こいてる」と言われることは普通にザラにある中で生きてきました。

そういう中である程度物心ついてきた中学生のころ、私はついに地元の行事には出かけなくなりました。居心地が悪いと思ったんでしょう。居心地が悪いっていうことがどういうことなのか、言葉では理解できなくても。

 

それでこそ、最近になってちょくちょくイベントに顔を出すようになりましたが、市レベルの行事には正直あんまり出る幕がありません。

自分でいうのもおかしな話ですが、この世界に再突入したのは、2014年に福島県郡山市で開催された「第47回全国手話通訳問題研究集会」で、本当に久しぶりに飛び込んだ気がしました。あれから3ヶ月後、父親との会話で・・・
父親「板橋さんって知ってるか?」
わたし「うん」
父親「亡くなったぞ」
わたし「えっ?」
という会話があったように、板橋さんが急逝されたのも記憶に新しいことです。今では板橋さんを知らない手話通訳者も増えてきました。

東日本大震災前、いわきでやっていたろう野球チームへ練習に参加して、当時かわいがってくれたろうの大先輩も帰らぬ人になったり、ここ数年慌ただしく、恩返しをすべき人に恩返しができないまま先越されることも一つ、二つの話ではなくなってきました。とても残念に思い、今思うと惜しいことをした、と改めて感じます。

 

2009年6月、茨城県つくば市で私は初めて全国ろうあ者大会に参加しました。私の両親は富山で開催された全国ろうあ者大会で知り合って落ち合ったそうなのですが、全国ろうあ者大会に家族三人で手をつなぎ合ってあの並木道を歩きながら、「ゆずり葉」の映画を見たことを久しぶりに思い出しました。あの頃はろうあ者に対する対応の仕方がよくわからないと思っていた矢先だったんだろうと思います。

 

私はどれだけ手話の世界から逃げ出したいと思ったことかわかりません。正直言えば、「僕は絶対将来手話通訳者にはならないぞ!」と思っていたほどですから、それだけいやな思い出も山積していたことでしょう。

 

話は一気に昨年に戻りますが、同じ福島県下でも1ヶ月以上に渡ってチラシや告知等の配布にディレイ(遅延)が起きていることにすごく嫌気をさしていました。私が参加をしていたいと思っていた行事も当然のことながらディレイが起きており、予め市レベルで「チラシが回ってきたら連絡をしてほしい」と言っておりました。

なかなかこないことに対して、同じ福島県下では会員に回っていくチラシ。そして、ついにしびれを切らしたころ、やっと回ってきたのです。それは大会参加締切の1週間半前の話だったのです。他の地域ではもう1ヶ月も早く配布されていたものが、たったの1週間半しかないもの。理由を聞いても、納得しない答えばかり。私が嫌われてるのかなんなのか、よくわからず終い。ついには一緒にいた父親も切れだす格好で、もう耐え難い状況が続きました。

 

この瞬間、「あ、もう無理だ。」と思ってしまい、結果そのマインドが今にも続きます。

 

もったいぶるのも仕方ないので、言わせていただきます。

私は、来年度より地元、いわき市を離れて生活をすることを現在検討しています。どうもここじゃ、手話通訳者として活動できない。そう思って判断した次第です。

ただ、福島県下では、福島県で活動してほしいと望む声も聞かれており、その声を犠牲にしてまで行くところはありません。まだ器も据わってないような未熟な私に、なにからなにまで一つひとつ丁寧にしてくれている先輩も当然のことながらいます。2015年8月、灼熱のように燃える暑さの中、日比谷公園から国会議事堂まで歩いたとき、あのとき福島からの派遣団を東京駅で見送るとき、「将来は手話通訳者として活動だね」と言われた県ろう協のお偉いさんからの言葉は今の糧にもなっています。その期待を裏切るわけにはいきません。

 

6月25日、手話言語条例制定市で、未来へのコマを進める。私はそう決めました。

だから、福岡には行きません。昨年よりも、つくば大会よりも行きたかったけど、犠牲にしてでも守るべきものがある。千年後なにも残らないけど、それでも今やるべきことがある。夢を叶えても、やるべきことはまだまだたくさんあるから。