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Dailog - ダイログ -

ろうあ者や手話通訳、時には時事ネタも突っ込む20代の次世代手話通訳者×全コーダが書くブログ。基本週一更新予定。

Our Summer

今年もこの季節がやってきました。

 

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そう、「全国手話通訳問題研究集会」です。

私は、福島・郡山集会(2014年/第47回)から3年連続皆勤賞継続中。
特に2年前の三重・鈴鹿集会(2015年/第48回)では全国手話通訳問題研究会N-Action委員会が正式に組織昇格された(2014年までは「U-35」として非公式的活動)ために、より一層次世代会員が参加すべきという重要度が上昇しています。

 

「全国手話通訳問題研究集会」、略して「全通研集会」と私たちは呼んでいますが、なんぞや?という方に簡単にご説明を。

1968年、第17回全国ろうあ者大会が福島県福島市で開催されました。この時、今のように単独ではなく、第2回全国ろうあ青年研究討論会、そしてこの「全通研集会」の前身である手話通訳者会議が開かれ、多くのろうあ者や手話通訳者が福島に集いました。

第2回全国ろうあ青年研究討論会、第1回手話通訳者会議を提唱したのは、3年前、奇しくも全国手話通訳問題研究会設立40周年の記念の年に急逝した板橋 正邦さんでした。

当時、1968年というと、25年ぶりの小笠原返還や3億円強奪事件に騒ぎ、また聴覚障害者の運転免許裁判の最中、まさに今のろうあ運動の成果はこの最中だったのです。

 

あれから49年、今年ついに、全国手話通訳問題研究集会が50回目の節目を迎えることになります。

福島開催だった第1回は71名、そのあと9年後に開催された第10回の福島集会では15倍以上の1,194名が福島市に集いました。第1回開催の8年後、1976年に全国ろうあ者大会から分離されて、今の夏の季節になりました。

以来、多くの歴史を刻み、手話通訳者の夏は全通研集会を抜きに終われないような恒例行事となっています。

1985年には、分科会を基本とした「全国手話通訳問題研究討論集会」が初めて大阪で開催。以後、2014年まで、年2回全国の仲間と考える機会が出来てきて、多くの会員間交流も活発になりました。

1988年、昭和63年には手話通訳制度が動きだします。厚生労働省が手話通訳士試験に向けて動き出し、平成元年に初めての手話通訳士試験を実施。相次ぐ頸腕症候群で各地の手話通訳者が相次いで労災認定されて、手話通訳者の健康問題も大きくクローズアップされていった年でした。

2015年には、分科会部門を全国手話通訳問題研究討論集会より吸収し、以後年1回の集会に戻りました。今や夏の風物詩であり、1,000人を超える手話通訳者とろうあ者が一斉に会し、福祉・人権・コミュニケーション・歴史を学び、議論を深める集会として在り続けています。

 

今年の集会の要項は、以下のリンク(行事案内に飛びます)から見ることができます。

www.zentsuken.net戦後72年になり、昨年は当時アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏が初めて原爆被爆地に足を踏み入れ、話題になりました。今回の開催地は広島県の東部、東京から新幹線「のぞみ」で3時間半、新大阪からは1時間で到達する福山市で開催されます。

 

詳しい案内は省きますが、講座にはヒロシマをめぐる講座や、被爆体験などが肝となっており、講座関係には例年以上に地域色が映えた形になりました。

また、分科会は昨年同様、8の分科会が開かれ、活発な議論が繰り広げられることでしょう。

 

昨年は都合で2日目からの参加でしたが、例年では1日目のお昼に始まり、その日の夜は交流会で老若男女問わず交流を図り、2日目は朝から勉強。夕方にはN-Action委員会のつどいがありますので、そこに顔をだし、次世代活動のヒントを参加者とシェアします。そのあと交流会があり、3日目は寝不足でありつつも気を引き締めてお昼まで勉強するという流れです。

 

この集会が安否確認、とまではいかないものの、全国の仲間と会える貴重な機会ともあって、交流目当てで参加する方も多くいます。仲間と会うっていうのは簡単かもしれませんが、ヒントを得る、一緒に考えるというのはなかなか簡単にはできません。こういう機会は大事にしていかなければいけませんね。

私自身も、この集会に参加し続けて増えている仲間もいます。年代は関係なく、学びたいことが学べる機会、そして多くの仲間に会える機会です。

 

今年は過去3年の開催地よりも遠い広島県での開催ですが、今のところ参加を検討しています。福山市内のホテル、今のところは集会申込を通じて、旅行代理店が宿泊予約を受けていますが、東京からだと新幹線往復+ホテルというセットパックプランもあるようで、東京以東から参加の方はそちらも検討してみては。

 

P.S.今年もN-Actionのつどいはあるようです。2日目の夜は次世代活動の議論を深めて、同年代の仲間を増やそう!

 

2017 Started

会員として所属している「福島県手話通訳問題研究会」(全国手話通訳問題研究会福島支部、福島通研)の定期総会が、4月16日に行われました。

 

京都支部などは4月30日とゴールデンウィーク真っ最中の開催だったり、地域によって開催時期がバラバラだったりしますが、おおまかにはこの時期に定期総会が集中することが多いですよね。

 

福島通研の会員としては2年目のまだまだ新米会員ですが、協会や連盟事情は正直親の関係や家族の関係もあり、2年目とは口が裂けても言えないほどではありますが、2年生らしくやっていこうと思うほどです。

 

そんな2年目・新米会員が臨んだ定期総会ですが、今年は会費が1,000円値上がりし、10,000円になりました。今まで全国的に珍しく4桁をキープしていましたが、宅配・郵送業界における輸送内容見直しや基本料金の値上げ、会員増加に伴う支部内活動の充実を背景に執行部より提案され、特に意義もなく承認されました。これで東北でもっとも安い会費の地位を失うことにはなりますが、日本有数の手話のまち、福島での活動が充実するのであれば安い御用なのかもしれません。

会員増加の話をチラっとしましたが、昨年2016年度の目標が192名だったのに対し、198名と大幅に増えました。相馬・双葉地域のいわゆる”浜北班"が大幅に活動を再開した、昨年福島通研の研修機会(=福島県通研講座)が久しぶりに浜北地区で開催されたこともあり、さらには耳の日記念集会が協会主催ではあるものの浜北地区で開催されたこともあって、浜北地区の会員数が大幅に増えたことが占めているようです。全国47都道府県に全通研の支部があるのと同じように、都市・地方レベルによって手話通訳制度が変わるという極端な話はありません。もちろん都市部にはそれなりに手話通訳を利用する人が多いということはあるにせよ、地方部では手話通訳の派遣がゼロかというとそういう話ではありません。我々が目指すべきところは、どの場所であっても公平かつ公立な手話通訳を利用できる環境を構築することであるからです。

 

定期総会内で”新米会員”ながら色々発言させていただきましたが、昨年多くの行事に参加しており、中には「福島県ろうあ運動ニュース」の表紙にデカデカと載っていても参加者ゼロという扱いをされたり(執行部より謝罪を受けていますが)した中で、青年部活動やろう協経由で申し込むものについては、事後でもいいので連絡をいただきたいという方針を示していただきました。こうやって、お互い思ってるものをいう機会というのはなかなかないですから、毎年毎年(といいながら、2回しか参加していませんが)事情があるにせよ、予定を空けて定期総会には参加しなければいけないと思います。会員が執行部に対してできる協力の一つ、つよく言えば責務の一つにしかすぎないと思うからです。

 

全国手話通訳問題研究会(全通研)では、設立41周年目に当たる2015年から2024年までの長期ビジョンをすでに策定していますが、福島支部は諸事情により今年より2024年のビジョンを策定しました。全通研では「きわめる」「たかめる」「はたらきかける」の3本柱を基本とし、活動を構成しています。長期ビジョンでも、この3本柱に基づいて根を下ろし、長期スパンでの活動の方向性を示して活動を行なっています。

かねてから、福島通研に要請していたN-Action組織の構築については、きちんと福島通研長期ビジョン2024内にて、「たかめる」の中に「N-Action活動」が盛り込まれました。すでに東北ブロック内でもN-Action組織の方向性など、ブロック役員同士での話が進んでいるよう(2017.03福島通研内配布:東北ブロックニュースより)であり、他の地域に遅れを取っている状態ではありますが、着実と前進している形になります。

 

福島通研は、今年設立40周年を迎えます。7月2日には、郡山市にて記念式典を開催し、全通研三代目会長の石川芳郎氏をお迎えして、記念講演をいただく予定です。

全通研も2014年、設立40周年を迎えました。50年前、手話通訳者会議が福島で初めて開催されたのをきっかけに、手話通訳者同士の連帯感を強めて、大きく国や地方を変えてきました。今わたしたちが考えなければいけないことは、手話通訳者の後継者を作るということ。50年前、40年前と一歩リードをして活躍してきた先輩たちは大幅に離脱し、手話通訳という仕事や協力が女性だけのものとは思わなくなってきた背景も含み、これからさらに手話言語の確立や手話言語の成立に対する議論が活発になると思います。時間の問題かもしれませんし、時間の問題であってほしいですが、これから聴覚障害者の社会参加ももっともっと進んで行きます。今の手話通訳制度を維持するために、わたしたち若い人の活躍が望まれてはいます。しかし、わたしたちが活動に期待が持てないのと同じように、わたしたちが生き生きと活動できるような環境が全国で構築されないことには、明日の手話通訳制度はありません。

 

今年は今後の人生を決めるために、また一つの人生の通過点に決着をつけるために、思ったように動けないこともあるかと思いますが、会員らしくできる範囲で最大限努力し、一年間活動を楽しんでいこうと思います。

Uncomfortable World

気が付けば3ヶ月過ぎていました。どうもありがとうございました。

 

ブログって気負って書くもんじゃないと思うんですけど、まあ三日坊主の集合体になりつつありますね。

 

今日は私が置かれている話をしようと思います。

 

私の父親福島県福島市出身、母親はいわき市出身です。

父親のお兄さん(おじ)は長らくどっかの団体の事務局長やってたり、で父親とおじの兄弟関係は福島県内では知らない人を探すのが苦労するレベルだったりするような関係で私は育ちました。

父方の実家帰ってもおじと話すときは手話を使いますし、おじの奥さん(おば)も手話通訳者であり手話通訳士ですから当然のことながら家庭内では手話が溢れている環境で育ち、必然的に手話を覚えていきました。

 

父親は毎週のように聴覚障害者会関係の役員会や手話指導で出かけ、母親も女性部の活躍等々で夜にひとり家に置いていかれるような生活もあったり、母方の実家が近隣ですからそこで夜帰ってくるまで待っていることもあり、そういう生活故に寂しがり屋に育ってしまった性格もあるようで。

ただ、ときたま連れて行かれることもあり、平気で地元での行事にも連れて行かれたりしました。まだ今のように政見放送に手話通訳が導入されていなかった頃、ビデオ学習会に連れて行かれたりされたのもいい思い出です。

 

しかしながら、手話の世界に連れて行ってくれた父親や母親の甲斐虚しく、私はどんどん地元(市レベルで)から嫌われていくようになっていきました。

「生意気」だと言われたり、「調子こいてる」と言われることは普通にザラにある中で生きてきました。

そういう中である程度物心ついてきた中学生のころ、私はついに地元の行事には出かけなくなりました。居心地が悪いと思ったんでしょう。居心地が悪いっていうことがどういうことなのか、言葉では理解できなくても。

 

それでこそ、最近になってちょくちょくイベントに顔を出すようになりましたが、市レベルの行事には正直あんまり出る幕がありません。

自分でいうのもおかしな話ですが、この世界に再突入したのは、2014年に福島県郡山市で開催された「第47回全国手話通訳問題研究集会」で、本当に久しぶりに飛び込んだ気がしました。あれから3ヶ月後、父親との会話で・・・
父親「板橋さんって知ってるか?」
わたし「うん」
父親「亡くなったぞ」
わたし「えっ?」
という会話があったように、板橋さんが急逝されたのも記憶に新しいことです。今では板橋さんを知らない手話通訳者も増えてきました。

東日本大震災前、いわきでやっていたろう野球チームへ練習に参加して、当時かわいがってくれたろうの大先輩も帰らぬ人になったり、ここ数年慌ただしく、恩返しをすべき人に恩返しができないまま先越されることも一つ、二つの話ではなくなってきました。とても残念に思い、今思うと惜しいことをした、と改めて感じます。

 

2009年6月、茨城県つくば市で私は初めて全国ろうあ者大会に参加しました。私の両親は富山で開催された全国ろうあ者大会で知り合って落ち合ったそうなのですが、全国ろうあ者大会に家族三人で手をつなぎ合ってあの並木道を歩きながら、「ゆずり葉」の映画を見たことを久しぶりに思い出しました。あの頃はろうあ者に対する対応の仕方がよくわからないと思っていた矢先だったんだろうと思います。

 

私はどれだけ手話の世界から逃げ出したいと思ったことかわかりません。正直言えば、「僕は絶対将来手話通訳者にはならないぞ!」と思っていたほどですから、それだけいやな思い出も山積していたことでしょう。

 

話は一気に昨年に戻りますが、同じ福島県下でも1ヶ月以上に渡ってチラシや告知等の配布にディレイ(遅延)が起きていることにすごく嫌気をさしていました。私が参加をしていたいと思っていた行事も当然のことながらディレイが起きており、予め市レベルで「チラシが回ってきたら連絡をしてほしい」と言っておりました。

なかなかこないことに対して、同じ福島県下では会員に回っていくチラシ。そして、ついにしびれを切らしたころ、やっと回ってきたのです。それは大会参加締切の1週間半前の話だったのです。他の地域ではもう1ヶ月も早く配布されていたものが、たったの1週間半しかないもの。理由を聞いても、納得しない答えばかり。私が嫌われてるのかなんなのか、よくわからず終い。ついには一緒にいた父親も切れだす格好で、もう耐え難い状況が続きました。

 

この瞬間、「あ、もう無理だ。」と思ってしまい、結果そのマインドが今にも続きます。

 

もったいぶるのも仕方ないので、言わせていただきます。

私は、来年度より地元、いわき市を離れて生活をすることを現在検討しています。どうもここじゃ、手話通訳者として活動できない。そう思って判断した次第です。

ただ、福島県下では、福島県で活動してほしいと望む声も聞かれており、その声を犠牲にしてまで行くところはありません。まだ器も据わってないような未熟な私に、なにからなにまで一つひとつ丁寧にしてくれている先輩も当然のことながらいます。2015年8月、灼熱のように燃える暑さの中、日比谷公園から国会議事堂まで歩いたとき、あのとき福島からの派遣団を東京駅で見送るとき、「将来は手話通訳者として活動だね」と言われた県ろう協のお偉いさんからの言葉は今の糧にもなっています。その期待を裏切るわけにはいきません。

 

6月25日、手話言語条例制定市で、未来へのコマを進める。私はそう決めました。

だから、福岡には行きません。昨年よりも、つくば大会よりも行きたかったけど、犠牲にしてでも守るべきものがある。千年後なにも残らないけど、それでも今やるべきことがある。夢を叶えても、やるべきことはまだまだたくさんあるから。

【行事参加レポートVol.4-3】第49回全国手話通訳問題研究集会 ~サマーフォラム in かながわ~<2日目/C講座Ⅱ−1>

 ●第49回全国手話通訳問題研究集会 ~サマーフォラム in かながわ~
=主催:一般財団法人全日本ろうあ連盟・一般社団法人全国手話通訳問題研究会=
2016年8月19日(金)~21日(日) 神奈川県横浜市 神奈川県民ホール横浜国立大学など

 

<今回の部分>
8月20日(土) C講座Ⅱの前半

 

講座2コマ目です。いわゆる「地元関係者生え抜き講演」で、地元の神奈川通研の会員さんによる講演でした。

テーマは「医療に関わるコミュニケーション〜病院の中と外から〜」で、医療関係に関わっている手話通訳者2人が講師となりました。

まず、最初の講師は、神奈川県手話通訳問題研究会の医療班所属している会員さんです。大きな内容は医療班として活動していることでしたが、全体的に講演を聞いたあとに感じたことはまさに「命の恩人」に手話通訳者はなり得るということでした。

神奈川県手話通訳問題研究会の医療班は、手話通訳者はもちろん、歯科衛生士や歯科医師聴覚障害がある薬剤師や医師、さらには看護師もいる中で活動しているようです。

例会にて医療に関する手話を学び、イベント会場で健康相談を行うという流れが確立しているようです。イベントというのはおおまかにいうと、ろうあ者大会が大きなところで、健康相談にやってくるのは20〜60人ぐらい、幅がありますが、昔は来ても20人しかこなかったようです。このブースがあることをわかってくれるようになってから人が増えたとか。

 

続いて健康相談をしてくれた方の事例について。まず男性60代のAさん、高血圧、糖尿病、心臓病を持っていますが、健康相談ではリピーターとして来ていただいてる方。月1回必ず定期的に循環器内科を受診し、内服治療中。通食事や薬の内服にも気をつけているから大丈夫だという話でした。数字も全く問題ないのに、医療班から「息切れしない?」と質問をしたところ、「そうなの」と訴えた。このことから始まり、足もむくんでいて歩きづらいとか。医療班から先生方にお伝えしたらどうか?とその方に提案したが、コミュニケーションに不安を抱えているのか、なかなか言い出せそうにないと。医療班の通訳者を呼んで一緒に連れて行ったらどうかという話をして声をかけ続けているという話でした。

次の事例は女性70代、高血圧と肩の痛みがあり、肩の痛みの治療のために整形外科に通院中というかたです。この方も通訳は呼びません。いつも一人で病院にいくそうです。もらっている薬はなんですか?と確認してみると、湿布や痛み止めとは疎遠の胃薬をもらっていることが判明。本人に聞いたが、なぜ胃薬なのかわからないという。そういう人もいます。ちなみにその方は高血圧を治療をしていないので、診察を受けてもらうように説得したそうです。

 

健康回復のきっかけになった事例もありますが、健康維持の観点で訪れる方も。もうすぐ90歳になる男性は、若いころろうあ運動に精力的に活動してきましたが、毎年いらっしゃるとか。大きな病気はなく、年に1回定期検診をうけ、そして健康相談にやってくるそうです。

これらの事例以外にも、夜寝る前まで食べたり、食事のバランスも考えていないという人も。元気そうにしていても血圧が190を超えている人、220もある人もいたり。不整脈の人、手話を使っただけで息切れする人、そういう相談を受けたりするそうですが、病院の受診を勧めます。必ず病院にいくっていうのは簡単、しかし手話通訳者を呼ぶこと、先生とちゃんとコミュニケーションをとるということも大事だと。自分の症状をはっきり伝えられず、そしてもらう薬の内容がわからない。理解できない。苦しんでいるのに時間がもったいない。

 

医療班の方は、医師や看護師など仕事をきちんとしている傍らで、健康相談の時は医療従事者として毅然と対応しているという。手話通訳の必要性が一般の人よりわかるからこそ、受診が必要な人には手話通訳が必要だということを訴え続けているそうです。

先ほどの足がむくんでいた人も、すぐに通訳者を連れて病院に連れて行ったら、先生とコミュニケーションが取れていなかったことがわかりました。食事療法も始まって、なによりもその症状を持ってる方が一番楽になったのです。

リピーターじゃなくても、何かおかしい、じゃあ病院行こうという話になってそのまま手術になった人もいるとか。

 

この医療班の話、私はすごく大事な取り組みであると考えています。ろうあ者が手話通訳者を呼ぶ場面、それは何が一番多いかと思えるかというところにつながってきます。

役所で色々申請や手続きをする際にも必要ですが、自分の健康を守るための場所に意思疎通できないということは本来あってはならないのです。病院側も大きな病院では設置が進んでいますし、その話もこの後しますが、設置の進んでいない病院や地方部の病院は大きいところであっても設置されている例はごくごく一部です。その中で、手話通訳を呼ぶのがめんどくさい、プライバシーの観点からという中で通訳を呼ばないのはもはや勿体無いとも言えるでしょう。

このような解決されていく事例、健康相談があったから病気が見つかったという人もいましたが、なによりも「助かった」という声こそ、医療班が必要な理由にも直結はしていきます。

私個人としてはこの話を伺う前、医療班は医療に特化した手話を学んでいく研究班か・・・。とだけは思っていましたが、ろうあ者と共に生きていくという言葉そのものを表したような研究班であると再認識しました。

講師チェンジですが、長いので一旦切ります。

I have a pain in the shoulder.

できればいくら忙しいと思っていても、1ヶ月は絶やさずに更新しようと思っていましたが、気づけば1ヶ月過ぎてました。どうもありがとうございました。

 

先月から始まった勤務にもボチボチ慣れ、大きな仕事を任せられるようになったり、
仕事で地元に電話をする機会も出来てきました。

仕事というのは、好き嫌いがあるかもしれません。
好き嫌いがあるから、頑張れるのかもしれませんね。
ただ、今の自分は仕事は好きですね、頑張れるかどうかという論点は置いておいて、
やはり自分はろうあ者を支えていく仕事のほうが好きなんだと感じます。

 

さてはおき、肩が痛いです。
先週ぐらいからでしょうか、朝起きると右肩や首が痛いときがあります。
治ればいいとは思うのですが、長引いています。

枕が合わないんじゃないの?と母親に言われたのですが、
二年ぐらい愛用しているIKEAの枕ですので多分そんなことはないんじゃないかと。
ヨダレでぼちぼち新しいのに変えないといけないのは事実ですが(汗)

 

そんなこんなで、今日も東京に向かっております。
今週末は東北大会が青森県八戸市で開催。
行事が立て込んでいますが、一向に進まないのは参加レポートですね。
大丈夫です、レジュメは残してありますから・・・なんとかかけるはず。

 

P.S.私のことをいつも考えていただいている京都の大先輩が本日誕生日だということです、おめでとうございます。もう年はいらねぇと言われそうですが、いなかったら私は通研には入っていないです。いつもありがとうございます・・・!

【行事参加レポートVol.4-2】第49回全国手話通訳問題研究集会 ~サマーフォラム in かながわ~<2日目/C講座Ⅰ>

 ●第49回全国手話通訳問題研究集会 ~サマーフォラム in かながわ~
=主催:一般財団法人全日本ろうあ連盟・一般社団法人全国手話通訳問題研究会=
2016年8月19日(金)~21日(日) 神奈川県横浜市 神奈川県民ホール横浜国立大学など

 

<今回の部分>
8月20日(土) C講座Ⅰ

 

横浜市桜木町のホテルで宿泊して朝。

朝は6時半頃起床し、髪を整えて、それから着替えて、午前7時。

ホテルの朝食を食べに。ビュッフェスタイルでした。

 

今回のホテルは、母親と二人、二泊合わせて4万円超えというちょっとリッチなホテルでした。ビジネスホテルとはかけはなれたようなホテルでしたので、朝食は期待していたのですが、思ってより案外と言うか。なんか、微妙でした。

元々朝食付きプランを頼んでいたのですが、微妙というより、割に合わないなぁと思いました。結構ホテルによってまちまちですよね。美味しいところは美味しいのですが。

 

まず、朝食なのにご飯がない!これにはびっくりしました。

フレンチトーストが美味しかったので・・・ご飯代わりに。

 

ご飯を済ませ、部屋に戻り、歯磨きをしてホテルを出ます。

桜木町、横浜と経由して、天理ビル前のシャトルバス乗り場へ。

 

時間が時間で一番後ろの方に立ち席で入りましたが、「つめてください!」という実行委員会の声でどんどん億に・・・。

気がつけば、私の背より天井が低いところに入り、終始前かがみの体制になってしまいました。よっかかるところがあったのでなんとかもちましたが、もう入れないのに10分ぐらい待たされてちょっとおこ。

そうこうしている間に、バスは出発し、横浜国立大学へ。

受付を済ませて8時50分頃にはC講座の会場である経営学部の講堂へ。

 

9時30分、始まりました。

C講座の会場は、大勢の参加者で埋まりました。福島からは私含めて4人が参加していました。

まず注意事項のお話があり、残念なことにカメラでの撮影が禁止となりました。
カメラを持っていた自分はちょっとショックというか、残念ですが仕方ありません。

 

そして、早速講演に入りました。

C講座のⅠ講座目は、『言語権とは〜外国籍県民支援から見えるもの〜』と題し、講師は慶応義塾大学名誉教授の古石 篤子 名誉教授によるお話でした。

まず、講師の自己紹介から始まりました。講師は、流通経済大学(茨城県)で初めて教鞭を取ったのち、慶応義塾大学の湘南藤沢キャンパス、通称SFCで1990年から24年もの間、携わってこられました。講師の授業などにおいて、学生は多くの影響を受けたらしく、「コミュニカティブ・アプロチのジャンヌ・ダルク!」と呼ばれることもあったそうです。近年では、2年前の2014年から慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスと上智大学でそれぞれ一コマ講義を持っているほか、聴講生として日々授業を聴講しているそうです。

 

もともとは、フランス語を教えてこられたそうです。そのほかにも小学校の他言語活動にも携わってこられて、現在も続けているそうです。現在、思うことは、やっぱり日本における外国語教育のメインが英語であること。外国には英語しかない、英語だけが外国語であるという先入観をもつ子供も増えてきていることを残念に思うと話されていました。最近では、駅の表示には、中国語の簡体語、さらには韓国語などもあったりするので、子供達がそういったことに自然に気づいて欲しいということも話されていました。

 

先生が、他言語活動に携わったきっかけというのが、外国につながる子供達の日本語教育と学習支援。その困難さと混乱さがきっかけで、取り組んでいらっしゃいます。

ろうの子どもたちの教育について。あるとき、人権救済の申し立てをしたとき、友人のジャーナリストに「面白い会合があるから」と騙されて飛び込んだそうです。それまで、「ろう」という世界を知らなかったらしいのですが、飛び込んで言語権の話をしたところが最初の接点だとか。カナダへ行って、バイリンガル教育の視察をしたこともあるそうです。

 

ここまでが前置きで、続いて本題に入って行きました。

前にFacebookで、「日本は農耕民族である」という話をしたのを思い出したのですが、最初はちょっとそことかぶさる部分があります。

日本というのは多様性を許容しにくい日本であることにまず触れられます。小さいときから周りに合わせることが前提であるから、自分と何か違う人を許容できない。それが日本人であり、「みんな同じ」「出る杭は打たれる」という謳い文句にもある通りです。

文化的で言語的背景が一緒になったとき、違う人同士の価値観をどのようにして乗り越えるのか、またその乗り越え方を生得するのかというのは難しい問題であるとも。

 

日本において、母語は日本語、外国語は英語という、二重の単一言語主義の考え方が強い。そのようなメンタリティが社会全体で構成されて、それ故に許容性を許容しないというのに重なってくるとも。講師が前に韓国に行ったとき、韓国で日本語をしゃべらされたそうです。周りから見れば、あなた日本人だとわからされたそうだが、そのように思った人が日本語を話せるということにびっくりしたとか。韓国では、第二外国語教育を中学校から始め、日本語が圧倒的一番人気だそうです。

 

言語教育の中で流行っているのが、複言語主義という考え方。これは一人の人間が複数の言語を使えるようにするということ。完璧は求めないが、コミュニケーションのリソースとしては最大限に使うこと。幾つかの言語を持つことはやはり必要であるということでした。

そうなると、外国語教育はなぜ複数必要なのかという話になってくる。これは複眼性を持たせるためであるそうです。世界をみるときにいくつかの武器や手段があると、そのモノの本当の姿に迫れるからで、外国語が一つと決めつけるとその外国語から得たものが絶対化してしまうデメリットがあるからだそうです。

モノを相対化できることは非常に重要である。相模原の障害者施設で残酷な事件が起きたが、あれが一回きりにとどまらないかもしれない。なぜなら、口にできないようなことを平気で攻撃したりするのは、多様性の異なった人を受け入れることができないという、日本人特有であるからともみることができるからである。ISのように世界をみると珍しいことでもなくなってきたが、日本でも同様な事件が起こるかもしれないし、小規模な事件(=相模原の障害者施設)でも起きている。今社会に求められているのは、自分と違うということを受け入れることができる社会を作り上げていくことではないだろうか、という話でした。

 

次に、講師が務めている、かながわ国際政策推進懇話会の話です。年数回に様々な分野の方をお招きして、外国籍住民の方が神奈川県で入り馴染むには、どのようにすべきかを知事に提案・提言しているそうです。

それに対応させて、神奈川県に住んでいる外国籍住民の人が、いろんな分野に意見をいう機会、外国籍県民かながわ会議というのもあるそうです。これは選挙権がない外国籍の方々とお話しできる貴重な機会であるそうです。

 

今の日本の人口の外国人比率は1.7%だそうです。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスが出来たときに、入管法が改定されて、1992年には外国人の比率が1%を超えました。しかし、他の国では、フランスでは5.6%が、ドイツでは約20%が外国人であるという。

日本における外国人比率が増えてくると、こんどは日本語を母語としない子どもも増えてきます。ポルトガル語や中国語、フィリピン語を母語としている子どもたちが多いとか。制度の問題では、日本における教育というのは国民教育がほとんどであるので、外国籍の方が行くとお恵みのような形になるそうで。憲法26条では「すべて国民は…」と規定されているように、文部科学省では文言説を取り、日本人だけが対象という考え方でいるそうです。教育そのものが人間における基本的人権であることを考えると、日本人か外国人かで制限するのは望ましくないという考え方だってあるということも。外国籍の子どもたちの不就学という課題にもぶつかってくるそうです。

アメリカやカナダにおいては、労働ビザを取る、いわゆる移住してくるとなると、子どもの就学義務が課せられるそうです。超過滞在などになると、子どもを通じてバレるとかバレないとか。日本はその点、児童の権利に関する条約に国会承認しているが、矛盾があるそうです。

 

言語権の話に入るのですが、法律では(1)言語に基づく差別の禁止、として宗教や人種と同じように禁止するのか。それとも(2)自ら使用したいと望む言語の使用、いわゆる自由権という形態が分かれます。言語権という言葉自体は生来日本には存在せず、アメリカからの言葉であるそうです。しかし、やはり人間にとって言葉は欠かせませんよね。人権レベルだと思うと話していました。

 

ろうの子どもたちの言語権。ろう児の定義を話されていましたが、言語獲得前に聞こえなくなった子どもを指したいと断った上での話でしたが、ろうあ者とは日本手話と呼ばれる日本語と異なる言語を話す、耳の聞こえない言語的少数者と呼ばれるそうです。音声日本語(音声言語としての日本語)を第一言語とする多数派に対して、言語的少数者と呼ぶそうで。

日本の憲法では、言語権の規定もなければ、日本語を母語とする規定もない。法の下の平等では言語が含まれていないが、学習権という形で判例が出ているらしく、それに似てろう児の言語権を主張されたそうです。

 

こういった話で進められてあっという間の時間でした。

 

感想を述べます。

この夏集会に向かう前、前回のブログでも述べたように東京に滞在していました。

そのとき、大学の講義などがあって、たまたま英語学習とつながる言語獲得の話が出ていました。

言語獲得の基本は、3歳から5歳が基本であるとその講義の担当教員が述べていて、私としてはふむふむという程度でした。

実際私が手話を学び始めた、使い始めたのは5歳ぐらいであり、その過程を述べれば言語獲得の基本からは逸脱するのです。

多分多くの日本人は、生まれたときに親など周りの環境の下、日本語の言葉がわからなくとも耳を通じて何回も聞いています。その中で次第にことばを覚え、そして喃語を発音し、そして正しい日本語の単語や50音を発音するという過程がごくごく一般的と感じます。

手話言語の獲得に対する研究は進んでいるのか、それともまだまだなのか、あまり触れてはいないのですが、仮にコーダのような環境などで聞こえる子どもが手話を獲得する、また聞こえない子どもが日本語よりも優先して獲得するという話になると、この教授された言語獲得の基本からは間違いなく逸脱するものであるとも感じれます。

 

私がたまたまでた講義の担当教員は、日本語対応手話も一応言語として認めていますが、実際はどうなのかと。言語体型的には言語であると考えますが、手話の基本である「効率的なコミュニケーション」にはかなり程遠く感じます。その中で言語権として日本手話をきちんと使う環境が整備されていくことが必要であるとあらためて感じることもできました。

日本でバイリンガル教育というと、明晴学院を思い浮かべますが、バイリンガル教育を受けた子どもたちが実際に社会に出たとき、どのような形でバイリンガル教育のメリットが出るのか。欧米諸国で行われているバイリンガル教育と同程度の効果が見えるのかどうかといったところも気になりました。

 

手話という言語文化を守るために、必要なことはそれを学ぶ、使う環境が整備されることです。言語権ということばが日本にもっと広がれば、守る環境もかわっていくものだと感じながら、お昼やすみのお弁当を食べていました。

 

Ⅰ講座目はこれで終わりにします。

【行事参加レポートVol.4-1】第49回全国手話通訳問題研究集会 ~サマーフォラム in かながわ~<イントロダクション>

 ●第49回全国手話通訳問題研究集会 ~サマーフォラム in かながわ~
=主催:一般財団法人全日本ろうあ連盟・一般社団法人全国手話通訳問題研究会=
2016年8月19日(金)~21日(日) 神奈川県横浜市 神奈川県民ホール横浜国立大学など

<今回の部分>
8月19日(金)

 

鈴鹿の地でみて、感じて、未来を語り合って、あれから1年。

今年は神奈川の地で人と心の和を、つなげて、ひろげる機会がやってきました。

 

二年前、福島集会(当時は全通研非会員)から三年連続で参加。

今年は4月に障害者差別解消法の施行、障害者雇用促進法の改正などにより、日本、全国において障害者制度の改革が大きく進められています。

今回の講座や分科会の大半が、この”差別”などに深く結びついている集会になりました。

 

また今年の集会は、次世代活動をするわたしたちにとっても大事な集会になっています。毎年大事とは言え、昨年発足した次世代活動委員会とともに、一年の活動はどうだったか、再確認する場でもあります。N-Action(次世代活動委員会)のつどいは、詳しくは後ほどにアップロードしますが、やはりわたしたちの活動にとっては切っても切れない関係になりつつあります。

 

8月3日、朝4時40分。自宅。

荷物をいっぱい抱え、ひとまず茨城県のJR高萩駅へ向かうことに。

というのも、8月3日から集会一日目の19日まで二週間半ちかく、大学の所用などによって東京滞在になるため、全通研集会の準備も含めて、移動することに。

 

一気に時間軸をワープして、8月19日。17時30分に予定の所用がすべて終わりました。

今回の集会の参加は、自分ひとりだけではありません。母親も初めて参加することになりました。

ひたち22号(東京18:44着)に乗車してくる母親を迎えに、東京駅へ。

そのあと帰宅ラッシュに揉まれる東海道線に乗って、横浜駅

京浜東北線に乗り換えて、ひと駅。みなとみらいの玄関口、桜木町駅に到着して徒歩10分程度。二泊お世話になるホテルに到着です。

 

今回の集会(から?)、実行委員会や旅行会社が希望する参加者のホテルを取りまとめるのではなく、参加者各自でホテルをとるという形になりました。

参加者の大半は、みなとみらい地区(桜木町馬車道・関内)、元町地区、鶴見、川崎、新横浜と宿泊地が分散する形になりました。中には東京に近いという土地柄の上で、一都三県の知人宅に宿泊するという参加者もいました。

 

一日目、関内駅近くのロイヤルホストで母親と夕食。私は、ハンバーグ定食みたなのを頂きました。

そして、薬局で\78という破格の「生茶」(大好物)をストック買い、セブン-イレブンによってアイスを買ったりして、準備完了!ホテルに戻りPCの充電もしながらそのまま就寝。

 

19日(金)終了。二日目(20日)のレポートは次回以降でお伝えします。